第十話 交渉とは戦場に出る前に勝つことだ
書斎をひっくり返した。
比喩ではない。文字通り棚の奥から引き出しの底まで、三日かけて片っ端から漁った。
フィレーネと二人、埃まみれになりながら書類の山と格闘する日々。
収穫は予想以上だった。
「リアンくん、これ」
フィレーネが引き出しの二重底から引っ張り出したのは古い羊皮紙の束だった。封蝋が施されている。クラウティア家の紋章と、もうひとつ──王家の紋章。
「王家の署名入り領地証書。クラウティア家にあの森を含む領地の永代所有権を認めるって書いてある」
「永代。つまり、正当な手続きなしには取り上げられません」
「当時の国王から軍功に対する褒賞として下賜されたって」
これだ。
ヴェルディア伯爵家がどんな圧力をかけようと、王家の署名入り証書を覆すのは容易じゃない。
もちろん伯爵家が宮廷に影響力を持っていれば話は別だが、少なくとも法的にはクラウティア家に正当な権利がある。
「君のお父上は、これをご存知だったのかな」
「たぶん知らなかったと思う。二重底に入ってたくらいだし。おじいさまの代で仕舞い込まれたのかも」
しかし証書だけでは足りない。
「フィレーネ様、この証書は切り札。でも、最初から出しちゃだめです」
「なんで?」
「交渉で最初に最強の手札を切るのは悪手ですから。相手に対策の時間を与えるだけなので」
「じゃあ、どうするの」
「まず相手の出方を見る。何を要求してくるか、どんな論理で来るか。それを聞いた上で、こちらの手札を切る順番を決めましょう」
フィレーネが真剣な目で頷いた。この子の吸収速度には本当に驚かされる。
残りの日数で僕はフィレーネに交渉の基礎を叩き込んだ。
相手の言葉を即座に肯定も否定もしないこと。沈黙を恐れないこと。感情的にならないこと。
そして何より──自分が何を守りたいのかを見失わないこと。
そして、月末が来た。
朝から空は重い曇天だった。冬の冷たい風が屋敷の窓を叩いている。
フィレーネは使用人の服ではなく僕が繕い直した藤色のドレスを着ていた。裾のほつれは完璧に直し、アイロン代わりの魔術でぴしりとシワを伸ばしてある。
見た目だけなら没落貴族には見えない。
「緊張する」
「するよ。でも、それでいい」
否定も肯定もしない。
馬車の音が聞こえた。屋敷の門前に紋章入りの立派な馬車が止まる。クラウティア家の錆びた門扉との対比が残酷だ。
使者は二人。
先頭に立ったのは、三十代半ばの痩せた男だった。仕立てのいい黒のフロックコートに銀の懐中時計。
目が細く、口元に薄い笑みを張り付けている。貼り付けた笑みというのは前世の営業マンで散々見てきた。目が笑っていない種類の笑顔だ。
「ヴェルディア伯爵家の家令を務めておりますデュラン、と申します」
家令。使用人の最高位を寄越してきたか。伯爵本人は来ない。わざわざ来る価値がない、という示威行為。
同時に正式な外交交渉ではなく、ちょっとした申し入れという体裁を保つための布石でもある。
なかなか嫌な手を打ってくる。
「ようこそいらっしゃいました、デュランさま。どうぞ、応接間へ」
僕が彼を出迎える。子供だけどしょうがない。
デュランの視線が一瞬僕を捉えて、眉をひそめたが一瞬だった。エルフであろうと子供の使用人など眼中にないらしい。
それでいい。
応接間は僕が重点的に手を入れた部屋の一つだ。家具は古いが磨き上げてあるし、暖炉には火が入っている。壁の肖像画も修復済み。一目で「この家にはまだ矜持がある」と伝わるように仕上げた。
「……」
デュランが一瞬、目を細めた。屋敷の状態が予想と違ったのだろう。もっと荒廃していると踏んでいたはずだ。
「クラウティアの当主、フィレーネでございます。はるばるこの屋敷にお越しいただきありがとうございます」
フィレーネがソファに座り、僕は後方に控えた。使用人の立ち位置だ。
「単刀直入に申しましょう」
デュランが切り出した。世間話もなし。格下相手に儀礼は不要、という態度。
「伯爵様はクラウティア家の現状を大変憂慮しておられます。幼い当主が、広大な領地を一人で管理するのは無理があるのではないかと」
広大。あの森と農地をそう呼ぶのは大げさだが、意図的に誇張しているのだろう。大変な負担を背負っている可憐な少女という構図を作りたいわけだ。
「つきましては、伯爵家がクラウティア家の領地管理を代行し、フィレーネ嬢には相応の年金をお支払いするという提案をお持ちしました」
領地管理の代行。聞こえはいいが要するに実質的な接収だ。年金で飼い殺しにして領地の実権を伯爵家が握る。
「ありがたいお申し出です」
フィレーネが答えた。僕が教えた通り、最初は肯定も否定もしない。
「具体的な条件をお聞かせ願えますか」
デュランが書面を取り出した。条件の要点はこうだ。
森を含む全領地の管理権をヴェルディア伯爵家に委託。期間は三十年。対価として相応の年金。屋敷の居住権は保障する。
提示された額は星露草で稼いでいる今のクラウティア家にとっては侮辱的な額だ。だが、伯爵家はまだその事実を正確に把握していないのかもしれない。
フィレーネは書面に目を通し、沈黙した。
五秒。十秒。十五秒。
デュランの薄い笑みに微かな苛立ちが混じった。即座に飛びつくと思っていたのだろう。没落した家の後ろ盾もない十二歳の少女が。
「お心遣いに感謝いたします。ですが」
フィレーネが顔を上げた。
「現在、クラウティア家の経営は安定しております。領地管理の代行は必要ございません」
デュランの目が細くなった。薄い笑みはそのまま。だが、空気が変わった。
「失礼ですが、フィレーネ嬢。安定と仰いますが、使用人もろくにいない屋敷で——」
「使用人は今、採用を進めているところです。収入面でもこの数か月で改善が見られております。具体的な数字はお見せできませんが」
見せない。これも作戦のうちだ。具体的な数字を出せば、伯爵家は対策を立てられる。曖昧にしておくことで、相手の不安を煽る。
デュランが間を置いた。予想外の展開に、頭の中で計算し直しているのがわかる。
「……なるほど。しかし、伯爵様のご厚意を無碍にされるのは——」
「無碍にするつもりはございません。ただ、今すぐにお答えできる内容ではないと申し上げているのです。改めて書面でお返事をさせていただきたく」
持ち帰り。即答しない。交渉の鉄則だ。
デュランの笑みが一瞬消えた。そしてすぐに貼り直した。だが、戻った笑みには先ほどにはなかった鋭さが混じっていた。
「……承知しました。では、一ヶ月ほどお時間を差し上げましょう」
「ありがとうございます」
「ただ——」
デュランが立ち上がりかけて、芝居がかった仕草で振り返った。
「あまり長くお待たせしないほうがよろしいかと。伯爵様は寛大な方ですが、ご厚意にも限度がございますので」
脅しだ。柔らかい言葉で包んだ、明確な脅し。
フィレーネの指先がわずかに強張った。でも、顔には出さなかった。
「お気遣い、ありがたく存じます」
使者が去った。
馬車の音が遠ざかるのを待って、フィレーネが大きく息を吐いた。
「……怖かった」
「よくやりましたね。完璧でした」
「完璧じゃないよ。最後、手が震えてた」
「相手には見えてなかった。それで十分です」
フィレーネがソファに深く沈み込んだ。緊張の糸が切れて、年相応の疲れた顔になっている。
「一ヶ月。次に何をすればいい?」
「伯爵家に断りの書面を送りましょう。ただし、普通の断り方じゃない……」
「どういうこと?」
「断りの文面に領地証書の写しを同封します。王家の署名入りのね」
フィレーネの目が見開かれた。
「切り札を——」
「使うタイミングが来ましたね。相手が脅しに出たということは、次は実力行使の可能性がある。その前に法的な壁を見せておくのがいいでしょう」
「それで伯爵家が引く?」
「引かないかもしれない。でも、正面からは来られなくなります。王家の証書を無視したら伯爵家の法的立場が危うくなるからね」
フィレーネは両手で頬を包んで、しばらく考え込んでいた。
「ねえ、リアンくん。わたし、怒ってるんだと思う」
「……」
「お父様が守れなかったものを、取り上げようとしてる人たちに。この家を、あの森を簡単に渡してたまるかって」
フィレーネの灰青色の瞳に炎が灯っていた。暖炉の火を映しているだけではない、内側からの光。
──会った時の怯えた目で「ここにいてくれるの?」と聞いた少女は、もうどこにもいなかった。
「その怒りは正しいよ、フィレーネ様。大事にしてくださいませ」
「うん。──負けないから」
十二歳の少女の宣戦布告。
僕はその横顔を見ながら、静かに確信した。
この子は化ける。
僕が少し手を貸すだけで、この子は自分の力でこの家を立て直す。そしていつか、僕の手など必要なくなる日が来る。
それは喜ぶべきことだ。そのために僕はここにいるのだから。
わかっている。頭では、ちゃんとわかっている。
「さ、まずは書面の準備ですね」
「うん。文面、一緒に考えて」
「もちろん」
暖炉の火が爆ぜた。冬の夜は長い。
でも、春は必ず来る。




