プロローグ 百年、長い昼寝だった
目を開けると空があった。
透き通るような蒼穹。
悠久の時を紡いできたアエテルヌムの空はいつ見ても完璧に美しい。
……うん。
僕はゆっくりと身を起こした。草の上に寝転んでいたせいで白銀の髪が背中のあたりで盛大に絡まっている。
小さな指先で梳こうとして、すぐに諦めた。子供の細い指では百年分の寝癖には勝てない。
「──で、何十年経ったかな」
呟いて指先に淡く魔力を灯す。
時の流れを読み取る簡易な術式。ハイエルフにとっては瞬きのように自然な行為だ。
浮かび上がった数字を見て僕は二度見した。
「百年。……百年ボーッとしてた!?」
草原に寝転んで空を見上げて、風の音を聞いて、マナの流れを感じて、昼寝して……気がついたら百年が過ぎていた。
なんじゃそりゃ。
前世で過労死した日本のサラリーマンだった頃の僕が聞いたら卒倒する話だ。あの頃は5分の仮眠すら贅沢だったのに。
立ち上がる。
相変わらず、視点が低い。
転生してからずっとそうだ。ハイエルフの体は成長が遅すぎる。
僕がこの世界に生を受けてから二百年経った今も手足は細く短いまま。
視界に広がるのは変わらぬ光景だった。
時忘れの郷、アエテルヌム。
世界の理から切り離されたハイエルフたちの楽園。
空気そのものに溶け込んだマナが、吸い込むたびに小さな胸の奥を心地よく満たす。食事も睡眠も必要ない。老いも病も存在しない。
──控えめに言って、退屈地獄である。
「ふわぁ……そろそろ起きよう」
草原を歩き出す。子供の歩幅では大人の半分も進まない。
歩いているとすぐに同胞の姿が目に入った。
大樹の根元に腰掛けた長身のハイエルフ……名はセレネイア。
確か僕より三万歳ほど年上の、このコミュニティでは若手に分類される女性だ。
……三万歳で若手、ね。
じゃあ二百歳の僕は生まれたてか?
彼女は百年前に僕がぼんやりし始めた時と寸分違わぬ姿勢で、一枚の木の葉を指先で回していた。
「おはよう、セレネイア」
彼女が視線を落とす。僕を見下ろす目は足元の小動物に気づいたような穏やかさ。
ハイエルフの大人は皆、僕にこういう目を向ける。
「リアン。お昼寝は終わったの?早いわね」
早い。百年で早い。
この感覚が恐ろしい。
ていうか二百年しか生きてないのに、百年昼寝してるとかどういうバランスなんだ。
人生……いや、エルフ生の半分昼寝してるじゃないか。
「その葉っぱ、前にも見たけど」
「ええ。七百年ほど前に拾ったの。葉脈の分岐パターンが気になってね。左から三番目の枝分かれの角度が、通常より〇・三度ほど浅い気がするのだけれど……もう少し観察してみないとわからないわ」
「……七百年」
「まだ結論を急ぐ段階ではないわ」
彼女はそう言って空いた手で僕の頭をぽんと撫でた。子供をあやすように。
百年の魂を持つ元社畜が、外見のせいで頭を撫でられている。この理不尽にはいつまで経っても慣れない。
……まあ、相手は三万年だけど。
「頑張って。後何万年葉っぱを見るか知らないけど」
更に足を進めると、泉のほとりでは別のハイエルフたちが輪になっていた。
何やら真剣な顔で議論している。珍しい。この郷で議論が起きること自体が、数千年に一度の大事件だ。
「何の話してるの?」
僕が声を上げると、輪の端にいたハイエルフ──アルヴァンが、ゆっくりと首を巡らせた。
視線が下に降りてくるまで、体感で三十分ほどかかった。
マジか。
「ああ、リアン。丁度いい。君の意見も聞きたい」
「意見?」
「泉のほとりにベンチを設置しようという案が出ていてね」
「ベンチ。いいじゃないか、作れば」
僕が即答すると輪の中に微かなざわめきが走った。ハイエルフたちが一斉にこちらを見下ろす。
彼らの目は食事中にテーブルをひっくり返した子供を見るような色をしていた。
つまり愚か者を見る目だ。
「リアン」
アルヴァンが膝を折り、僕と目線を合わせた。
「落ち着いて。まだ素材の選定どころか、デザインの方向性すら固まっていないんだ。ヴェルメイア長老が座面の曲率について興味深い提案をされたのが……そう、六百年ほど前だったか。それ以来、議論を重ねているところでね」
「はぁ、六百年」
「まだ序盤だよ。少なくとも、あと千年は構想を練るべきだと私は思っている」
「ソウデスカ。ガンバッテネ」
僕はカタコトになるくらい呆れて、丘の上に向かう。
小さな足で斜面を登るのは、大人が思うより結構大変だ。途中で二回ほど草に足を取られかけた。
丘の頂上に立つと、ようやく視界が開ける。ここだけは小さな体でも世界を見渡せる場所だ。
「はぁ……」
見渡す限りの楽園。永遠に変わらない風景。永遠に結論の出ない議論。永遠に回り続ける葉っぱ。
……前世の僕は月曜日の朝が来るのが嫌で嫌で仕方がなかった。金曜日の夜を生きがいにして、地獄のような一週間を乗り越えていた。
だが今、この場所には月曜日がない。
金曜日もない。
昨日と明日の区別すらない。
何もかもが永遠の中に溶けている。
これは確かに安らぎだ。前世の僕が喉から手が出るほど欲しかったものだ。
だがこれは、違う。
僕が求めていたのは適度な休息であって、永遠の停滞じゃない。
ブラック企業の反対はホワイト企業であるべきだ。
虚無企業じゃないぞ。
「……」
風を受ける。
アエテルヌムの風は穏やかで温度も湿度も完璧に心地よい。
少年の細い銀髪を優しく梳いていく。何一つ不満のない風だ。
──だから駄目なんだ。
不満がないということは、感動もないということだ。全てが完璧ということは、何も際立たないということだ。
前世で深夜にコンビニで買った安い缶ビールの、背徳的な幸福感。疲れ果てた身体で浸かる銭湯の、痛いほどの心地よさ。
それらは全て不完全な日常があってこそ輝いていた。
「──よし、決めた!」
僕は丘を駆け下り自分の住処に向かった。大樹のうろの中に作った小さな部屋。
荷物と言えるものは何もない。百年分の時間が積もっただけの空間だ。
「外に行く!誰が何と言おうと外の世界に行く!!」
最低限の身支度を整え、外界へ繋がる門の前に立つ。苔むした石のアーチ。
この先は人間たちの世界。時間が流れ、命が燃え、全てが移ろう不完全な世界。
「リアン」
背後から声がかかった。セレネイアだ。葉っぱはまだ手の中にある。
振り返ると、彼女は少し屈んで僕の顔を覗き込んできた。虹彩の瞳に彼女の顔が映る。
「外に出るの?」
「えーっと……うん。少し散歩してくる」
「そう」
彼女の手が伸びてきて、僕のローブの襟元を直した。遠足に送り出す母親のような手つきだった。
「すぐ戻るのでしょう?」
ハイエルフのすぐは、おそらく数千年単位だ。
「どうだろう。たぶん、少しかかる」
「そう。気をつけてね。外は忙しないから」
セレネイアは微かに笑って、また葉っぱに目を落とした。
彼女なりの見送りだった。千年後に続きを話しても何の違和感もない別れ方。それがハイエルフの流儀だ。
嫌いじゃない。でも、僕には合わない。
石のアーチに手を触れる。門が淡く光り、空間が揺らいだ。
アーチの向こう側に見知らぬ森の風景が滲み出す。
躊躇せずに入る。
鬱蒼とした緑、湿った土の匂い、遠くで鳴く鳥の声。
情報量の暴力だった。
アエテルヌムでは百年かけても出会えなかった量の刺激が、門の向こうから一気に押し寄せてくる。
風が違う。湿度が違う。温度が違う。
何より──時間の密度がまるで違う。
口元が自然とほころんだ。前世でいう月曜の朝の憂鬱に似た、胸を締め付ける感覚。
──ああ、懐かしい!
「さて」
小さな足で、一歩踏み出す。
「適度に怠けられる職場を探そうかな~」
何があるのだろう。何と出会うのだろう。
楽しみだ。




