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黒歴史を背負った新人声優だってハッピーエンドを迎えたいっ  作者: 海坂依里
第1章「あのとき恋をした声優が、今では俺の先輩声優です」
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第6話「恋心を黒歴史に変えた先輩声優と同居しています」

「ただいま帰りました……」


 外の冷たい空気と入れ替わるように、森村荘の温かな空気が頬を撫でた。

 森村荘とは、声優オタクの森村香耶乃(もりむらかやの)さんが管理人を務めるシェアハウスのような場所。

 香耶乃さんが声優業界で働くプロ声優を応援すると決意してくれたおかげで、香耶乃さんが相続した広大な住居と莫大な遺産が現役声優たちを支援することとなった。


(明日は学校と仕事……)


 たくさんの人が、森村荘を出入りしたと聞いている。

 たくさんの人が、夢を実現させるために森村荘を訪れたと聞いている。

 男女問わず。


「っ、うぅ」


 誰が入ってくるかも分からない玄関の入り口に、現役声優の笹田結奈さんがうつ伏せになって倒れ込んでいた。


「笹田さん! こんなところで寝ないでください!」

「和生くん……」

 

 飲食店にいたときは先輩らしい頼もしい表情をしていたのに、今は顔を伏せて泣いていたのが分かるほど目が腫れている。


「笹田さん、ほら、そんな脚ばたばたさせると見えますから!」

「っぅ、ごめんなさい!」


 ゆっくりと顔を上げた笹田さんを見つめると、やっぱり彼女の目は赤く、涙の跡が頬に残っていた。


「下着を和生くんに覗き込んでもらおうとか、これっぽっちも思ってなかったから」

「もっと言葉に恥じらいを持ってもらえますか……」


 誰も下着を覗き込んでいましたなんて言っていない。

 下着が見えていないって言ったら、それはそれで嘘になるけれど。

 スカートの下に穿いている物が見えたなんて、言えるわけがない。


「ほら、こんなところで横になったら、風邪引きますよ」

「お父さん? それとも、お母さん?」

「どっちでもなくて、後輩です」


 笹田さんは袖で目元を拭い、泣いた跡を隠そうと試みる。


「ちゃんと立てます?」

「下着の一枚や二枚、どうってことないってこと?」

「俺が笹田さんの下着を見たって、世間に美味しいネタを提供するだけです。流出すらしませ……」

「っ、やっぱり見たのね……」


 涙目になっている彼女を可愛いと思ってしまう気持ちをぐっと抑えて、大きな声を出す準備を整える。


「見てません! 見てませんからっ!」


 この森村荘は、ある意味では全国的に有名な場所。


森村荘(ここ)は、常に監視の対象」

「監視って……」

「みんながみんな、ストーカーに狙われているようなものよ」

「うーん……それは、ごく一部の人たちだけだと思います」


 香耶乃さんのおかげで、今や森村荘は人気声優を高確率で排出する場所となっていた。

 だからこそ、ネットやSNSで交わされる話題には持って来いの場所が、この森村荘。


「誰が入居していて、誰が退去して行ったのか。残念ながら情報が筒抜けなんだから」

「それはまあ、否定しません」


 安値で住まわせてもらっている上に、この森村荘出身者は高確率で有名になることができる。

 そうなれば、プライベート情報の一つや二つが漏れたからって文句は言っていられない。


「森村荘歴が長くなってくると、感覚が麻痺してきちゃいそう」


 プライベート云々よりも、こっちは声優業界で食べていけるようになることの方が重要なのだから。

 プライベートなんてあってないようなもの。

 俺たちのプライベート情報は、将来に向けた投資ってやつなのかもしれない。


「プライベートは、守られるべきもの」


 俺が差し出した片手を支えにしながら、笹田さんはゆっくりと立ち上がる。

 乱れた髪を手櫛で整えたり、スカートに寄せられた皺を直そうとする仕草を見ていると、どんなに廊下で寝転んでいても女性なんだなぁってことを思う。


「未来の宝が住む場所、森村荘……ね」


 自信がなさそうな物言いだけど、笹田さんの表情は穏やかで優しい。

 未来にたくさんの希望を抱いて生きていることが彼女の笑顔を通して伝わってきて、過去に炎上騒動に加担した身としてほっと肩をなでおろす。


「和生くん」

「すみません、考えごとしてて……」

「お夜食に、パンケーキを所望いたします」


 夜っていう時間帯に見られるような笑顔じゃない。

 まるで太陽を思い起こすような眩しさある笹田さんの笑顔に魅入って、そして俺に懐いてくれる笹田さんの声に聞き入ってしまう。


「アイドル声優が夜食にパンケーキですか?」

「和生くんの作るパンケーキ、お店並みのクオリティだから」

「大丈夫な理由になってないです」

「ふふっ」


 彼女の声に聞き入ってしまうのは恋心が理由ではなく、職業病ってやつだと思い込む。


「まあ、ライブを控えてるんで、カロリーは消費されると思いますけど」

「私のスケジュール、覚えててくれたの?」

「っ」


 何気ない言葉のやりとりってことに油断しすぎた。

 今でも笹田さんが出演するイベントのスケジュールを把握しているなんて、口が裂けても言えない。


「ほら、俺のことより、腫れた目をなんとかしてください」

「え、あー……また、やっちゃった……」


 プロの顔をしているなーって、漠然とそんな風に思った。


「世の中には、私の心を揺さぶる作品で溢れすぎているのよねー」

「……良かったですね」

「この感動と喜びを、どうやったら表現できるのかしら」


 笹田さんは、オタク業界を盛り上げている様々なコンテンツに命を注いでいる。

 結果、携わった作品一つ一つへの想いが深くなり、感極まって涙を零してしまう。

 そんな彼女のことを周囲の人たちもよく理解していて、次第に作品愛深い笹田さんの魅力に引きつけられていく。


「一つ一つの作品を大事にしつつ、たくさんの出会いも経験したいな~」


 いま見せてくれた、雑誌で見かけるような可愛らしい笑顔はまさに極上品。


「もっと業界のために尽くすことのできる、そんな声優を目指していかないとね」


 笹田さんを異性として見ていない人間でも惚れそうになってしまうくらい可愛く見えるのだから、元オタクの俺は本気の本気で困ってしまう。


和生(かずき)くん、和生くん」

「はいはい、なんでも聞きますよ」

「いつもありがとう」


 耳元で囁かれるその言葉に、心臓を強く揺さぶられるような感覚を受ける。

 それは彼女に恋をしていたことが原因なのか、仕事のときに使うような抜群に可愛い声を利用してくることが理由なのか。


「っ、さっさと目、冷やしてきてください」

「はーい」


 耳の先まで熱くなっているのを見抜かれたのか、笹田さんくすりと笑って場を去っていった。

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