ケモノノ巣域 外伝 ──涙を捨てた日──
戦争は、人間の心を壊すことに迷いがなかった。
朝人の街は、もう形を保つのに必死なほとんどが抜け殻のようなものだった。
焼け焦げた屋根は、触れれば崩れ落ちそうで、
傾いた電柱は“倒れる力すら残っていない”ように見えた。
風が吹くたび、灰が舞い、焦げついた木の匂いが鼻に残る。
巳影朝人は、そんな街で毎日瓦礫を運んでいた。
体のどこかが常に痛み、呼吸も浅かったが、それでも働いた。
働かなければ、生き残れなかった。
家には、病弱な母が横たわっている。
薬代は毎日上がり、朝人の稼ぎでは追いつかない。
それでも、働くしかなかった。
配給所へ向かう道で、白い天幕の隙間から光がこぼれ、
そこで働く少女が見えた。
「朝人!」
沙耶の声だった。
振り返ると、埃まみれの腕で天幕を押さえ、
逆光の中でこちらを見つめていた。
顔の半分は影に沈んでいるのに、目だけはいつもと同じだった。
「またケガしてる。ほら、見せて」
「大したことないよ」
「大したこと、あるの」
沙耶が朝人の腕に触れた瞬間、
その温度が、朝人の肺の奥をじわっと熱くした。
戦争で、優しさに触れることなどほとんど無い。
触れられるたび、胸のどこかが締めつけられた。
◆
配給が終わる頃、二人は瓦礫の山に腰を下ろした。
座る場所ではない。それでも、街にはもう座れる場所などほとんど残っていなかった。
夕暮れの光が、焼け焦げた壁の破片に反射し、
街全体が赤く滲んで見える。
それは美しさではなく、ただの痛みの色だった。
「朝人、最近……笑ってないよね」
沙耶は責めるでもなく、嘆くでもなく、
ただ事実だけを言った。
朝人は返事に詰まった。
「……笑う理由、どこにあるんだよ」
「どこかにあるよ。ちゃんと。
朝人、昔はよく笑ってたのに」
沙耶は夕陽から目を逸らし、膝を抱えた。
その指先が、小さく震えていた。
「怖いよ……毎日。全部。
でもね、朝人がいると……少しだけ、マシなんだよ」
朝人は喉の奥が痛くなった。
沙耶が弱音をこぼしたのは初めてだった。
その一言で、胸の奥に“まだ壊れていない部分”が残っていることに気づいた。
◆
空襲は、あまりにも突然だった。
夜空が破れるような爆音。
地面の揺れで壁が崩れ、火が走った。
沙耶の家の方角に炎が上がるのが見えた瞬間、
朝人は考えるより先に走っていた。
「おじさん!」
沙耶の父は瓦礫に挟まれ、灰と血に染まっていた。
医者が到着すると、状況を一瞬で読み取り、
短く言った。
「軍の治療所なら……助かる可能性があるが、
軍属以外は難しい」
沙耶は父の手を握り、泣くこともできず、ただ震えていた。
その肩を見ているだけで、
朝人の胸の奥で、何かがきしんだ。
(俺が……軍にいれば……助けられたのか)
その考えは、想像ではなく“確信”に近かった。
◆
翌日。
まだ焦げた匂いが街に残る中、朝人は沙耶を呼び出した。
「……軍に入る。俺、決めた」
沙耶は驚かず、ただ目を伏せた。
「……そう、なんだね」
涙は落とさない。だが声は弱かった。
「朝人が決めたなら、止めないよ。
朝人は……誰よりも人のために動く人だから」
朝人は拳を握った。
言いたい言葉は喉の奥で固まった。
「帰ってきてよ。
お願い……ちゃんと……帰ってきて」
朝人は沙耶の手を握った。
その手は、いつもより冷たかった。
「……約束する」
声が震えた。
本当は抱きしめたかった。
でも、戦争はそんなものを許さなかった。
◆
数日後。
朝人は徴募所の列に立っていた。
軍服を受け取る手は冷え、
背後で誰かが泣いている声が聞こえた。
そのとき、視線を感じた。
振り返りたい。
だが、それをしてしまえば終わる。
遠くに、沙耶が立っていた。
風に髪を揺らし、ただ朝人を見ていた。
それでも、朝人は振り返らなかった。
(弱さを捨てるって……決めただろ)
それは、自分自身を切り捨てる行為だった。
◆
終戦直前。
部隊に届いた一枚の報告書。
「本土西部某市、空襲により壊滅」
朝人の故郷の名がそこにあった。
◆
焦土を踏みしめ、朝人は街の跡へ降り立った。
家々は黒い粉となり、
人が暮らした痕跡はどこにも残っていない。
沙耶の家があった場所で、朝人は素手で瓦礫を掘り返した。
指が裂けてもやめなかった。
「沙耶……沙耶……」
しかし――
沙耶の遺体は見つからなかった。
代わりに、瓦礫の隙間から出てきたのは、
焼け焦げた髪留めだけだった。
白い花を模した、小さな飾り。
黒く煤け、欠け、原形を保っていない。
朝人はそれを握りしめ、膝をついた。
涙は出なかった。
出るはずがなかった。
(泣かない……俺は、もう……泣かない)
灰が風に舞い、空だけが青かった。
◆
焼けた髪留めを握りしめたまま、
巳影朝人は静かに立ち上がった。
その胸の奥で、何かが“死んだ”のを確かに感じながら。
この作品は、ケモノノ巣域の主人公・巳影朝人の過去を描いた短編です。
彼がなぜ冷徹な軍人となったのか、その根にある喪失と決意を描きました。
本編を知らなくても読める構成になっています。
読んでくださった方に、少しでも胸に残るものがあれば幸いです。




