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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

ケモノノ巣域

ケモノノ巣域 外伝 ──涙を捨てた日──

作者: 夢虚
掲載日:2025/11/19

 戦争は、人間の心を壊すことに迷いがなかった。

 朝人の街は、もう形を保つのに必死なほとんどが抜け殻のようなものだった。


 焼け焦げた屋根は、触れれば崩れ落ちそうで、

 傾いた電柱は“倒れる力すら残っていない”ように見えた。

 風が吹くたび、灰が舞い、焦げついた木の匂いが鼻に残る。


 巳影朝人は、そんな街で毎日瓦礫を運んでいた。

 体のどこかが常に痛み、呼吸も浅かったが、それでも働いた。

 働かなければ、生き残れなかった。


 家には、病弱な母が横たわっている。

 薬代は毎日上がり、朝人の稼ぎでは追いつかない。

 それでも、働くしかなかった。


 配給所へ向かう道で、白い天幕の隙間から光がこぼれ、

 そこで働く少女が見えた。


「朝人!」


 沙耶の声だった。


 振り返ると、埃まみれの腕で天幕を押さえ、

 逆光の中でこちらを見つめていた。

 顔の半分は影に沈んでいるのに、目だけはいつもと同じだった。


「またケガしてる。ほら、見せて」


「大したことないよ」


「大したこと、あるの」


 沙耶が朝人の腕に触れた瞬間、

 その温度が、朝人の肺の奥をじわっと熱くした。


 戦争で、優しさに触れることなどほとんど無い。

 触れられるたび、胸のどこかが締めつけられた。



 配給が終わる頃、二人は瓦礫の山に腰を下ろした。

 座る場所ではない。それでも、街にはもう座れる場所などほとんど残っていなかった。


 夕暮れの光が、焼け焦げた壁の破片に反射し、

 街全体が赤く滲んで見える。

 それは美しさではなく、ただの痛みの色だった。


「朝人、最近……笑ってないよね」


 沙耶は責めるでもなく、嘆くでもなく、

 ただ事実だけを言った。


 朝人は返事に詰まった。


「……笑う理由、どこにあるんだよ」


「どこかにあるよ。ちゃんと。

 朝人、昔はよく笑ってたのに」


 沙耶は夕陽から目を逸らし、膝を抱えた。

 その指先が、小さく震えていた。


「怖いよ……毎日。全部。

 でもね、朝人がいると……少しだけ、マシなんだよ」


 朝人は喉の奥が痛くなった。

 沙耶が弱音をこぼしたのは初めてだった。


 その一言で、胸の奥に“まだ壊れていない部分”が残っていることに気づいた。



 空襲は、あまりにも突然だった。


 夜空が破れるような爆音。

 地面の揺れで壁が崩れ、火が走った。

 沙耶の家の方角に炎が上がるのが見えた瞬間、

 朝人は考えるより先に走っていた。


「おじさん!」


 沙耶の父は瓦礫に挟まれ、灰と血に染まっていた。


 医者が到着すると、状況を一瞬で読み取り、

 短く言った。


「軍の治療所なら……助かる可能性があるが、

 軍属以外は難しい」


 沙耶は父の手を握り、泣くこともできず、ただ震えていた。


 その肩を見ているだけで、

 朝人の胸の奥で、何かがきしんだ。


(俺が……軍にいれば……助けられたのか)


 その考えは、想像ではなく“確信”に近かった。



 翌日。

 まだ焦げた匂いが街に残る中、朝人は沙耶を呼び出した。


「……軍に入る。俺、決めた」


 沙耶は驚かず、ただ目を伏せた。


「……そう、なんだね」


 涙は落とさない。だが声は弱かった。


「朝人が決めたなら、止めないよ。

 朝人は……誰よりも人のために動く人だから」


 朝人は拳を握った。

 言いたい言葉は喉の奥で固まった。


「帰ってきてよ。

 お願い……ちゃんと……帰ってきて」


 朝人は沙耶の手を握った。

 その手は、いつもより冷たかった。


「……約束する」


 声が震えた。


 本当は抱きしめたかった。

 でも、戦争はそんなものを許さなかった。



 数日後。

 朝人は徴募所の列に立っていた。


 軍服を受け取る手は冷え、

 背後で誰かが泣いている声が聞こえた。


 そのとき、視線を感じた。

 振り返りたい。

 だが、それをしてしまえば終わる。


 遠くに、沙耶が立っていた。

 風に髪を揺らし、ただ朝人を見ていた。


 それでも、朝人は振り返らなかった。


(弱さを捨てるって……決めただろ)


 それは、自分自身を切り捨てる行為だった。



 終戦直前。

 部隊に届いた一枚の報告書。


「本土西部某市、空襲により壊滅」


 朝人の故郷の名がそこにあった。



 焦土を踏みしめ、朝人は街の跡へ降り立った。

 家々は黒い粉となり、

 人が暮らした痕跡はどこにも残っていない。


 沙耶の家があった場所で、朝人は素手で瓦礫を掘り返した。

 指が裂けてもやめなかった。


「沙耶……沙耶……」


 しかし――

 沙耶の遺体は見つからなかった。


 代わりに、瓦礫の隙間から出てきたのは、

 焼け焦げた髪留めだけだった。


 白い花を模した、小さな飾り。

 黒く煤け、欠け、原形を保っていない。


 朝人はそれを握りしめ、膝をついた。


 涙は出なかった。

 出るはずがなかった。


(泣かない……俺は、もう……泣かない)


 灰が風に舞い、空だけが青かった。



 焼けた髪留めを握りしめたまま、

 巳影朝人は静かに立ち上がった。


 その胸の奥で、何かが“死んだ”のを確かに感じながら。

この作品は、ケモノノ巣域の主人公・巳影朝人の過去を描いた短編です。

彼がなぜ冷徹な軍人となったのか、その根にある喪失と決意を描きました。

本編を知らなくても読める構成になっています。

読んでくださった方に、少しでも胸に残るものがあれば幸いです。

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