第17章:水面にほどけた初夏
朝の空気が、ほんのりと夏めいていた。
王城の高窓から差し込む陽はどこか柔らかく、それでいて光の輪郭はしっかりと眩しい。庭に咲いたクローバーの花が、朝露に濡れて小さく揺れている。
「──行きましょう。今日は、特別な日になる気がするの!」
ルナがそう言ったのは、朝の食卓でのことだった。
紅茶の香りがまだ残るテーブルを囲みながら、
レイアとミレーヌは顔を見合わせた。
「準備はいい? 今日は、ピクニック日和になりそうよ!」
「どちらへ、ですか?」とミレーヌ。
「お庭よ、お外でお昼を食べましょう!」
そう言って笑ったルナの狼耳が、嬉しそうにぴこぴこと揺れていた。
*
支度はすぐに整った。
ミレーヌが前日から準備した籐のバスケットには、焼きたてのパイと小さなサンドイッチ、ハーブで香りづけしたレモネードが詰められている。
ルナは麦わら帽子をかぶり、白と薄紅のワンピース姿。金の髪は陽に透けて、風に泳いでいた。
「ね、レイアもミレーヌも、ちゃんと楽しむのよ?」
「承知しました」とレイアが無表情に頷く横で、
ミレーヌは微笑みを浮かべながら「……では、お供いたします」と静かに礼をした。
ふっと軽くなった手元を見て、ミレーヌは瞬きをする。
「あれ?」
持っていたはずのバスケットが、いつの間にかレイアの腕の中に移っていた。
「……あっ、あの……」
「持ち運びの最適化を図りました」
無表情のままそう言うレイアに、ミレーヌは困ったように笑いながら小さく頭を下げた。
ルナはその様子を見て、ふわりと笑みを浮かべた。
*
陽の光が、木漏れ日のリズムで揺れていた。
城の裏手、城壁に近い場所に広がる芝生は、あまり人が通らない静かな場所だった。花壇のチューリップはもう終わりかけで、代わりに野生のマーガレットが咲き始めている。
ミレーヌはぽつりとつぶやいた。
「ここも……お庭なんですね……広すぎます……」
「敷地内であることは確認済みです」
レイアが即答する。
ルナは芝の上でくるりと振り返った。
「ここ、風もいいし、ちょうどいいわね!レイア、その敷き布をお願いね」
「承知しました」
レイアが芝の上に淡い色の布を広げ、
ミレーヌは籠を開いて、料理を丁寧に並べ始めた。
レイアはミレーヌの手元をじっと観察していたが、
やがて小さくうなずくと、「これは、ルナに好感度が高い食品です」と言って、
好物のチーズパイを一切れ、そっとルナに差し出した。
「ふふ、ありがとう。さすがね」
ルナが笑いながら受け取ると、レイアはほんのわずかに、表情筋を緩めたように見えた。
風がひと吹き。ルナの耳がひらりと揺れる。
「なんだか、ね……」
ルナは、ぽつりとつぶやいた。
「昔……よく妹とこのあたりまで来たの。母さまには内緒で、ふたりでお菓子を持って。まだ芝が短くて、背の低いチューリップばかり咲いてたわ」
桃銀色の髪が、風にふわりと揺れた。
「……でも、あの頃は、“ただ楽しい”ってだけだったの。今日みたいに、何気ない時間を大切にしたいなんて、思いもしなかった」
その横顔を、ミレーヌとレイアが見守っている。
「今は違うの。あなたたちがいてくれるから──
わたし、こうして過ごす時間がとても好きよ」
照れたようなルナの笑みに、ミレーヌは優しく頷き、
レイアもまた、わずかに口角を上げて、肯定のサインを送った。
*
ルナはひとくちサンドイッチを口に運び、ふわりと笑った。
「……うん、やっぱりミレーヌの作るものって、安心する味だわ。美味しい!」
ミレーヌは耳をぴくりと動かし、ピンと背筋を伸ばしたあと、すぐに目を泳がせた。
「あっ、いえっ、あの、その……材料がよかったんです!あと天気もよくて……えっと……」
「ふふっ、そんなに動揺しなくても」
ルナが楽しそうに微笑むと、ミレーヌはようやく落ち着きを取り戻し、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます、姫さま」
*
「……ふぅ。ちょっと、暑いわね」
ルナは麦わら帽子を持ち上げて、額の汗をぬぐった。
「水を汲んできますか?」
レイアが立ち上がりかけるのを、ルナが手で制した。
「いいえ。せっかくだもの、三人で行きましょう」
木漏れ日の間を抜けて、緩やかな坂を下ると、そこには小さな小川が流れていた。苔むした石が点々と並び、冷たい水がさらさらと音を立てている。
ルナは靴を脱ぎ、そっと片足を水に浸した。
「ひゃっ……つめたい……でも、気持ちいい……!」
ミレーヌはぎょっとして、すぐに駆け寄った。
「姫さま、まだ水が冷たいです! 風邪を召されては──」
「大丈夫よ。ねぇ、ミレーヌ」
ルナはにっこり笑って、ぱしゃりと水を跳ねさせた。
「ふふっ、ちょっとだけ覚悟して?」
「えっ──ひゃあっ!?」
ミレーヌの足元に水しぶきが飛ぶ。
「ふたりも、入りましょう? とっても気持ちいいわ!」
ルナの無邪気な笑みに、ミレーヌは小さくため息をついてから、靴を脱いで川へ入った。レイアもそれに続き、無言のまま水の中に立った。
三人の影が、水面に揺れる。
ルナがしゃがんで水をすくい、ミレーヌの足元へ流す。ミレーヌは笑いながら、やり返すようにそっと水を弾いた。
その間を、レイアが静かに立ち尽くしている。
「……レイアも、やっていいのよ?」とルナ。
「……では」
レイアは真剣な顔で手を浸し、すくった水をそっとミレーヌに──
「ちょっ……そんな真顔でやらないでくださいっ!」
そんな他愛もない遊びの中で、ふいにルナが足を滑らせた。
「──あっ」
ミレーヌがとっさに手を伸ばす。
「姫さまっ!」
だが、その勢いで今度はミレーヌの体勢が崩れる。
「わっ──」
そこにレイアが割り込むようにして二人を支え──
──三人とも、見事に水の中へ倒れ込んだ。
ばしゃん。
水しぶきが太陽に跳ね返り、虹のように瞬いた。
「……あ、あれ? わたし、濡れてない?」
ルナはそっと目を開けると、
そこには水を滴らせたミレーヌと、完全にびしょ濡れのレイアがいた。
「……レイア!? 大丈夫!?」
「問題ありません。防水処理は万全です」
「ふふっ……」
びしょ濡れになっても、なお真顔を崩さないレイアを見て──
ミレーヌが口元を押さえ、くすくすと笑い始めた。
「ごめんなさい、我慢できませんでした……ふふっ……」
川面に笑い声が広がる。
三人の影が、水面に溶けて、ゆらゆらと揺れていた。
初夏の香りが、遠く花の香と混ざり合いながら、午後を照らす。
まるでこの瞬間だけ、世界がほんの少しだけ優しくなったような──そんな一日だった。