第16章:ふたりの手、ひとつの髪
陽の傾き始めた午後
ルナの私室には、まだ微かに甘い紅茶の香りが残っていた。
レイアは椅子の脇に控え、ルナはその前で小さくため息をついている。
「ん……そろそろ、毛先が絡まってきたかしら」
指先で金の髪をつまんで、軽く引っ張る。
「レイア」
「はい」
「髪、梳いてくれる?」
その問いに、レイアは頷いた。すぐに木櫛を手に取り、ルナの後ろへ回る。
──が。
「ガガガッ……」
「きゃっ!? な、なに、ちょっと、痛い……!」
櫛が毛先に引っかかり、機械的な手つきで引かれたルナの身体がびくりと揺れた。
「レイア、お願いだから、梳く時はもう少しやさしくして……痛いのよ、これ」
「すみません。手加減の加減に失敗しました」
「……今の、わたしじゃなくて櫛が怒ってた音でしょ」
ちょうどそのとき、扉をノックする音。
「ルナ姫さま、失礼いたします。マルレーンにございます」
レイアがすっと扉を開けると、侍女長マルレーンと、ミレーヌが並んで立っていた。
「姫さま、おくつろぎのところ恐れ入ります。本日はご報告と、承認を賜りたく」
マルレーンが一歩前に出ると、ミレーヌが深く頭を下げた。
「ミレーヌを、ルナ姫さまの専属メイドに任じたく存じます。
今後はより近くで姫さまをお支えする役目を担わせたく……」
ルナは目をぱちくりとさせたあと、やわらかく微笑んだ。
「そう──やっとなのね。うれしいわ、ミレーヌ。これからもよろしくね」
「もったいないお言葉にございます……」
ミレーヌの耳がわずかに揺れた。
「ありがとうございます。では、私はこれにて。
今後はミレーヌがより近くで姫さまをお支えいたしますゆえ」
「ありがとう、マルレーン」
マルレーンがルナに一礼し、退出すると、静かな空気が流れる。
ルナは少し考えるようにミレーヌの方へ向き直ると、ふわっと笑った。
「じゃあ、ミレーヌ。髪、梳いてもらってもいいかしら?」
「は、はい!」
ミレーヌが櫛を手に取る。
まるでそれが指先に馴染んでいたかのように、やさしく滑らせていく。
ルナはうっとりと目を細めた。
「……うん、上手。すごく気持ちいいわ」
レイアがその様子を、じっと観察していた。
「……手首の角度と、圧力の調整がポイントでしょうか」
「ふふっ、もう1本ありますので一緒にやりましょう!」
ミレーヌがブラシを渡すと、レイアはまじめな顔で受け取り、ゆっくりと櫛を通し始めた。
最初はぎこちなかったが、数度でスムーズになっていく。
「……学習完了です」
「ふぁぁ……ふたりに髪……梳いてもらうのって気持ちいい……なんて贅沢なの……」
ルナは目を閉じて、ふにゃふにゃした顔をしていた。まるで陽だまりの猫のように。
窓から差し込む陽の光が、その髪を金糸のように照らし出していた。
「日差しが暖かいなぁ……明日は3人でピクニックにいきましょう」
「はい、準備はお任せください!」
ルナの素敵なお誘いに、レイアは無言のまま微かに頷き、
ミレーヌは満面の笑みで元気よく声を出した。
その午後に特別な出来事はなかったけれど──
ただ、ふたりの手が梳いてくれた温もりは、ルナの胸に、そっとやさしく残った。