第15章(幕間):とけてゆく月・後編
城内の調理場では、夜の仕込みを終えた料理長マリアンネが、
大きな身体を椅子に沈めていた。
熊耳が揺れる、年季の入った女性だ。
その隣では、犬耳の若いメイドが洗い物の手を動かしながら、
おしゃべりに花を咲かせていた。
「リリス姫さま、また首席ですって。
あの年で召喚陣を二重展開なさったそうよ」
「血筋じゃなくて、あれは才覚だね。たいしたもんだよ」
「それに比べて……“こもり姫”は、どうしてるのかしら。
退学処分だったって噂もあるし」
「また詩でも書いてんじゃないか? おとぎ話みたいなやつ」
くすくすと笑いが漏れた。
それを耳にした瞬間、ミレーヌの狐耳がぴくりと震える。
洗い物をしていた手が止まり、水面に波紋が広がっていく──
──その波紋が消えぬうちに、
扉が、爆ぜた。
── バァンッ!!
風圧さえ帯びるような勢いで、調理場の空気が切り裂かれる。
「お水、もらえるかしら!」
ルナ姫が、稽古姿で颯爽と現れた。
額には汗が滲み、襟元まで濡れたシャツが、若々しい輪郭を浮かび上がらせている。
その煽情的にも見える姿に調理場の空気が凍りつき、誰もが視線を逸らした。
「……ミレーヌ?」
名を呼ばれて、ミレーヌは我に返る。
「し、失礼いたしました! ただいま──!」
慌てて水瓶に駆け寄り、銀のカップに水を注いで差し出すと、姫はにっこり笑ってそれを受け取り、勝手口から風のように去っていった。
思わず、ミレーヌもその背を追った。
*
中庭の片隅、誰もいない小道。
ルナ姫は水をひとくち口に含んだ後、それを頭から──
ばしゃっ──
水音が、陽の光の下に透明な弧を描いた。
「っ──」
ミレーヌは、その光景に思わず息を呑んだ。
太陽の光が、水しぶきを照らす。
銀糸のような髪が、濡れたシャツの上を滑り落ち、陽光のプリズムをまとう。
姫は髪をかきあげ、目を閉じて空を仰いだ。
──その姿は、あまりに美しかった。
冷たい水のきらめきも、額に貼りついた濡れ髪も。
汗と風と光のすべてが、一つの絵のように彼女を包み込んでいた。
ミレーヌは、その光景に我を忘れて動けなかった。
「ありがとう!」
その声はいつもより少し高く、どこか無邪気で──
ミレーヌの胸に、まっすぐ飛び込んできた。
ルナ姫は歯を見せてはにかみ、カップをミレーヌに手渡すと、
風のように走り去っていった。
──その時、ミレーヌの胸の奥で何かが弾けた。
尊い……!!
そんな想いが、ふと生まれて、そして痛みに変わる。
一生お仕えしたい──
その願いは、越えてはならぬ一線を孕んでいる。
けれど、忠誠という形にしてならば、そばに在ることはできる。
「……ふふ。わたくしも、随分と罪深いメイドですね」
自嘲のように笑い、ミレーヌは静かに調理場へ戻った。
*
調理場へ戻ると、また囁きが聞こえてくる。
「だからさ、ルナ姫さまももうちょっと普通だったら──」
「えー、でもあの濡れた姿、ちょっとエロかったっていうか……」
ミレーヌは静かに言った。
「……もう、やめましょう」
その声は洗い場の奥まで静かに響いた。
不意に空気が止まり、器を洗っていたメイドたちが手を止める。
「姫さまを知らぬ者の口が、あの方の何を語るのですか!」
ミレーヌの声は、先ほどよりもはっきりとした強さを帯びていた。
「ミレーヌ!」
後ろから呼ぶ声に振り返ると、侍女長マルレーンの姿があった。
「侍女長……どうしてここに……」
「ミレーヌ。ついてきなさい」
有無を言わせぬ声に、ミレーヌの狐耳がしゅんと垂れ下がった。
「はい……」
「なんなの、あの子……」
「ルナ姫さまのお側付きでも狙ってるのかしら」
「まあ、大それた娘ね。メイド風情が──」
──狐耳が、ぴくりと震えた。
それは、確かに“聞こえてしまった”という合図だった。
足が一瞬止まりそうになったが、ミレーヌは背筋を伸ばし、歩みを止めなかった。
*
石造りの廊下を歩きながら、マルレーンは問いかけた。
「何も言い訳はしませんね?」
「いたしません」
「忠誠心は認めています。けれど姫さまに私情を挟むのは……」
「存じております」
少しの沈黙ののち、ミレーヌは静かに言った。
「……あの方のために涙を流せないのなら、せめて笑顔を守りたいのです」
それは恋にも似ていた。けれど、恋ではなかった。
仕える者には、仕える者の形がある。
忠誠とは、そうして定めるものなのだ──
*
「うぅ……」
ミレーヌはあの後、マルレーンにこってり絞られた。
厳しくも的確な叱責の嵐に、魂まで干からびた気分である。
「……はぁ……」
狐耳も尾も、しおしおと垂れ下がり、今にも地面に擦れそうなほど。
やっとの思いで廊下を歩いていた時だった──
角を曲がった瞬間、
「きゃっ……!」
誰かとぶつかりそうになった。
思わず身を引くが、足元がふらついて──
──視界がぐるりと傾く。
あっ、と声を上げる間もなく、ミレーヌの身体は宙を舞うように倒れ──
けれどその瞬間。
「危険です」
ふわり、と。
まるで舞踏会の一幕のように、誰かの手が彼女の腰をすくい、
背を支え、片腕でそっと抱き留めた。
冷たい金属の感触。けれど不思議と、あたたかい。
「……え?」
胸元に抱かれたまま、ミレーヌは見上げる。
銀の髪が揺れた。
光のない月のような、けれど美しい──銀の瞳が、真っ直ぐこちらを見ていた。
「……レイア、さま……」
驚きと、安堵と、そして一滴のときめきが、ミレーヌの心に落ちた。
「あなたは……”ルナのメイドさん”ですね。
脈は正常。軽度の疲労、もしくは低血糖の可能性が高いです」
「へっ……?」
何やら物騒な診断が聞こえた気もするが、ミレーヌはまだレイアの腕の中にいた。
その事実だけで、胸の鼓動が早くなる。
レイアは静かに立ち上がると、内ポケットのような部分から何かを取り出した。
「良ければ、これを」
小さな銀紙に包まれた、琥珀色に光る飴玉だった。
ミレーヌが戸惑っている間に、レイアはそっと彼女の唇にそれを押し当てる。
まるで子どもに薬を飲ませるような、優しい動作だった。
「……っ」
ミレーヌは反射的に口を開けてしまい、飴玉が舌の上に転がる。
味わったことのない上質な、とろけるような甘さが、口いっぱいに広がった。
「はぁ……あまい……」
思わず呟いたその瞬間には、いつの間にか立たされ、
レイアはもう背を向けていた。
去ろうとするその背に、ミレーヌは慌てて声をかける。
「ま、待ってくださいっ、お礼も──」
「あ──」
レイアが振り返る。
その表情は変わらないのに、なぜか空気が少しだけ柔らかくなる。
「姫様が──あなたの淹れた紅茶を、たいへん気に入っていました。
……また、お願いします」
そして一礼するでもなく、ただすっと、風のようにその場を去っていった。
残されたミレーヌは、口の中の甘さに呆然としながら、その背中を見送る。
「……敵わないなぁ……」
ぽつりと漏らして、ふふっと笑った。
口の中で飴玉が転がる音がした。
*
その夜──
ミレーヌは自室で明日の紅茶の葉を選びながら、
そっと微笑んだ。
香りは、少しだけ甘く、澄んでいた。
それは、あの午後の光と、彼女の微笑みを、
そっと思い出させるような香りだった──