第14章:ふたりの尾がふわり
「ルナ、質問があります」
「ん? なにかしら」
ルナは庭のベンチで蜜柑の皮をくるくると剥いていた。
春の陽がやわらかく差し込み、風が耳と尾をくすぐるように撫でていく。
隣に立つレイアは、その風景の中でひときわ静かに、彼女を見つめていた。
「……あなたの耳と尾は、装飾ではないのですね?」
「ええ。“生えてる”の。わたしの、ちゃんとした身体の一部よ」
レイアは少し黙ったあと、ふと迷うように目を伏せてから言った。
「……触れても、いいですか?」
ルナは蜜柑を剥く手を止めて、息を呑む。
思わず顔を上げると、レイアの瞳が真っ直ぐこちらを見ていた。
そこにはいつものような無機的な光ではなく、
小さな好奇心と、どこか──祈るような、遠慮がちの感情が滲んでいた。
ルナの頬がじんわり熱くなる。
(そんな顔で言われたら……断れないじゃない)
「……少しだけなら、いいわよ」
気づけば、口が先に動いていた。
声は思ったよりずっとやわらかく、甘い音色を帯びていた。
「……ありがとう」
レイアの手がゆっくりと近づく。
ルナの狼耳が、風に反応してぴくりと震えた。
ふれてきたのは、ごくごく軽い、まるで羽のようなタッチ。
それだけなのに、ルナの身体に電流のような感覚が駆け抜けた。
思わず口元を両手で覆い、声にならない声を必死に飲み込む。
(やば……っ、これ……)
体の奥に、じんわりと熱がこもる。
狼耳が反応してぴくりと跳ね、尾の先がふるふると震えた。
レイアはそんなことも知らず、淡々と──けれどどこか楽しげに言葉を継いだ。
「……やわらかくて、あたたかい。毛並みに微細な逆流層……。撫でると、指が吸い込まれそうです」
「っ──!」
ルナの目がかすかに潤む。
昂ぶりは胸元までせり上がり、呼吸は自然と浅くなっていった。
ちら、と視線がレイアの口元に落ちる。
その動き、声の余韻、首すじ……ひどく眩しく見えた。
(なに考えてるの、わたし……っ!)
色々な感情が入り混じり、呼吸の間隔すらうまく整わない。
そのとき──ふと視線が合った。
レイアは首を傾け、静かにルナの瞳を覗き込む。
そして、その目の端に宿った小さな光を見て、わずかに眉を寄せた。
「ごめんなさい。強すぎましたか?」
「ちが……ううん。ちがうの。ただ……その……その辺り、ちょっと敏感で……っ」
狼耳が伏せられ、尾がふるふると揺れた。
レイアは無表情のまま、しかしどこか満足げに──
「……了解。“とても大切な場所”と記録します」
「な、なんで記録するのよーっ!?」
思わず蜜柑を投げそうになったが、間一髪で理性が勝った──
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陽射しは少しだけ傾き、時間の流れがゆるやかに戻っていく。
ルナの頬の熱がようやく引いた頃、
レイアはふと視線を横にやり、何かを見つけたようだった。
芝生の向こう、小さな噴水のそば。
一人のメイドが、幼い子どもと手を取り合って遊んでいた。
控えめな身なりのその背からは、やわらかな時間がこぼれ出しているようだった。
やがて、もう一人の子が駆け寄り、ふたりは仲良く手を繋ぎながら、城の中へと戻っていく。
その様子を、ルナも見つめていた。
そして、ぽつりと──
「……ああいうの、いいわよね」
ぽかぽかとした陽射しに包まれながら、胸の奥にじんわりと何かが広がっていく。
自分でも気づかぬうちに、尾がふわりと揺れていた。
それは懐かしさとも、羨望とも違う、ただ静かであたたかい、愛おしさのようなものだった。
「“家族”というものですか?」
レイアの問いに、ルナは少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに微笑んだ。
「そう。レイアには……家族って、いた?」
その瞬間、風が一度止んだように感じられた。
鳥のさえずりも遠のき、噴水の水音だけが静かに響いている。
まるで時が一拍、間を置いたようだった。
「いません。私は“起動”され、“任務”を与えられただけの存在です」
「そっか……“つくられた”のね。わたしは、生まれてきたの。母が2人と、そして──妹がいるわ」
その言葉に、レイアの目元がわずかに揺れた。
普段と変わらぬ無表情の奥に、何か遠いものを見つめるような光が宿る。
自分にはない“家族”という概念――温かなものへの微かな憧れと、
それを理解しきれない戸惑い。
それでもレイアは、何も言わず静かに頷いた。
「リリス、という名でしたね。王族系譜の記録に存在しています」
「また調べてるし……。でも、あの子はね、ちょっと特別なの。優秀で、よくわかんないところで私を越えてくるし」
ルナは尾を膝に巻きながら、ふっと笑う。
「もしこの国を継ぐなら、あの子が向いてるかもしれない。……そうなったら、私はどうしようかな……」
レイアはそれに返事をしなかったが、静かにルナの横顔を見つめていた。
そのとき、ふと足音が近づいてくるのをルナは耳で察知した。
柔らかな靴音に振り向くと、さきほどのメイドが控えめに立っていた。
金色の狐耳が、陽を受けてぴんと立っていた。
その根元に結ばれたリボンが、風に揺れ、静かにきらめいている。
「あら、ミレーヌ。どうかしたの?」
ルナが声をかけると、ミレーヌは小さく会釈しながら、そっと口を開いた。
「ルナ様、そろそろ剣術のお稽古の時間では...?」
ぶわっ、とルナの尾は倍ほどに膨れ上がった。
「えっ……やだ、すっかり忘れてた……!」
ルナは慌てて立ち上がり、ドレスの裾を整える。
「いけない、すぐ準備しなきゃ。……レイア、ついてきて!」
「了解しました」
ふたりが連れ立って歩き去ったあと、侍女はそっとその背を見送りながらつぶやいた。
「……“お姉さま”って呼ばれる日も、そう遠くはないかもしれませんね」
そのとき、風が一筋、そっと吹き抜けた。
花びらがふたひら舞い、飲み残した紅茶のカップにふわり、と納まる。
水面に触れた花弁は、くるりと小さな円を描きながら、楽しげに踊った。
まるで未来の兆しを囁くように──