第1章:ルナの朝と、空からの訪問者
王城は、今日も完璧だった。
いや、完璧すぎた。
衛士たちは分刻みで庭を巡回し、侍女は果物を彫刻にし始める。
廊下の絵画は百年もの――にもかかわらず埃ひとつ落ちていない。あまりに整いすぎていて、逆に不安になるレベルだ。
そんな“整いすぎた朝”を、王女ルナ・ルクレティアは、こっそり抜け出していた。
「朝の視察って言ったけど……視察場所までは聞かれなかったわよね。ふふっ」
淡い陽光が、桃と銀にまじった髪をやわらかく照らす。
その髪に、ふわりと添えられた狼の耳。
風の匂いを嗅ぎ取るようにぴくりと動き、腰のふわふわした尻尾が、どこか嬉しげに揺れている。
城の高台からは、王都が一望できた。
赤茶の屋根が並ぶ街並み、白く敷かれた石畳の大通り。
煙突から白煙を上げるパン屋、噴水ではしゃぐ子どもたち――
それは、変わらぬ平和の景色だった。
「……退屈なのよね」
その呟きは、小さく、風に溶けていく。
贅沢も、名誉も、忠義も、すべて手の中にある。
けれどそれは“自分で選んだ”ものじゃない。
政略結婚も、国の未来も、姫としてのふるまいも。
ぜんぶ最初から決められていた。
それはまるで、宝石のように輝く鳥籠。
自由に見えて、飛べない場所。
「誰か、私をさらいに来てくれないかしら。できれば、空から美少女が落ちてくるとか――うん、そうね、ちょっと無防備で」
誰にも聞かれていないのをいいことに、ロマンチックな妄想をつぶやく。
もちろん、そんな都合のいいこと――
\\ ごうっ!! //
……空が、ひずんだ。
耳が先に気づいた。狼の耳は、音よりも先に、風の異変を感じ取る。
「……ん?」
目を上げた瞬間、雲が裂けた。
青と銀の尾を引いた閃光が、天を突き破り、まっすぐ森の彼方へと墜ちていく――
まるで糸を引いて落ちていく彗星のように。
でも、これは違う。速い。狙ってる。目的がある。
「なに……あれ」
太陽でも風でもない。
あれは“異物”の光。
直感が、心の奥で鐘を打った。
「まさか……」
その言葉を口にする前に、ルナの足が動いていた。
「姫様!? どちらへ!? ご予定が――!」
「森よ!」
「また森ですか!? 一人では危険です!」
「“また”って言わないでってばーっ!」
叫びながら、ドレスの裾を握りしめ、全力で階段を駆け降りる。
自室に戻って着替える余裕なんてない。走りながら尻尾がぽよぽよ跳ねるけど、気にしてる暇もない。
「最速の飛獣を!」
「ひ、姫様!? はいっ、ただいま!」
王族や高位貴族だけが乗ることを許された飛獣――
その一体が、厩舎の奥から姿を現した。
黒曜石のような毛並みに、しなるような四枚の翼。
カラスと豹を足して気難しさを2倍にしたようなその魔獣の名は、「ヴェルナ」。
王族にしか馴らせない、誇り高き空の使い手。
琥珀色の瞳がルナを射抜くように見つめている。
「行くわよ、ヴェルナ!」
「……ぴいっ!」
気持ちやや不満げな鳴き声。でも飛ぶ。ちゃんと飛ぶ。えらい。
朝日を背に、桃銀の髪がふわりと舞う。
尻尾もふわん、と上がった。
空を裂いて、風を駆ける。
森が迫るたびに、胸が高鳴る。
墜落地点には、まだ熱と霧が立ちこめていた。
「……本当に、降ってきたのね」
鼓動が速い。
呼吸が浅い。
だけど今だけは――
王女でも、姫でもなく。
ただの一人の少女でいられる気がする。
物語の、主人公でいられる気がする。
ルナは、まだ知らない。
空から落ちてきたのは、ただの星ではない。
それは、美しく、銀色に煌めく少女であり――
やがて国を、世界を、彼女の心を揺るがす存在だった。
この日、空は涙を流した。
ひとしずくの運命が、地に落ちた。
そして、姫とアンドロイドの物語が、幕を開けた。