80通目【母の虚像】
「当然だろう。もうフェロー家の当主はリゼットだ。いま使用人の入れ替えを急いでいるが、それが終われば私は領地へ向かう。領主代行としてな」
「そんな……私、てっきりお父様はここにいてくださるものとばかり……」
「それに、子爵となったお前がいつまでもハロウズ伯爵邸に居候しているわけにはいかないことも、わかるな?」
リゼットはうつむき唇を噛みしめた。
子爵が伯爵邸に居座り続けるのがおかしいことくらいわかる。
だがわかるからと言って、すぐに受け入れられるものでもなかった。
やっとハロウズ邸に戻ってこられたのに。
これからまたスカーレットの代筆をしながら、様々なことを教わり、一緒に食事をして、楽しい毎日を送れると思っていたのに。
しかもリゼットが家に戻っても、入れ替わりで父は領地へ向かうという。この家でふたりで暮らすわけではないのだ。
まるでリゼットから逃げるようではないか。
「心配するな。メリンダが雇い入れた使用人たちはほぼ解雇した。代わりにメリンダがクビにした以前の使用人たちにいま声をかけている」
「以前の……お母様がいた頃の?」
「ああ。全員が戻ってくるわけではないが、何人かからは良い返事をもらった。お前のことも知っている使用人たちだ。居心地の悪い思いはしないだろう」
父の気遣いはありがたいが、リゼットが気になっているのは居心地の悪さではない。
結局父とのわだかまりを解消できないまま、離れ離れになることが気がかりなのだ。
(このままでいいはずがないことは、わかっているけれど……)
どうしたら父の心に寄り添えるのか、リゼットにはわからない。
いつもなら、思いをこめて手紙をかけばと考えるところだが、父にはきっと気持ちが届かないどころか、逆効果になりそうだ。
そのとき微かに、シャランと繊細なガラスのベルをような音が聴こえた。
妖精の羽音かと思ったが、いったいなぜいま?
(この部屋って、たしか……)
リゼットは立ち止まっていたすぐ横の扉を見て、そこが生前母が使っていた部屋だと思い出した。
母が亡くなってすぐに、父が鍵をかけ出入りできないようにしてしまった、フェロー家の開かずの間だ。
ドアノブに手を伸ばしかけたが「リゼット?」と父に呼ばれて、思わず手を引っ込めてしまう。
「申し訳ありません! いま行きます!」
***
帰りの馬車の中で、リゼットはため息をついた。
最低限の使用人が邸にそろうまで、二週間ほどはかかるという。
つまり、スカーレットとともにいられる猶予はあと二週間ということだ。二週間後にはリゼットは子爵邸に戻り、父は領地へ向かう。
(自立をして、自由にお手紙が書けるようになりたい。その願いは叶ったのに、こんなに寂しい気持ちになるなんて……)
もう誰にも縛られることもなく、強制されることもなく、禁止されることもない。好きな場所に行き、たくさんの人と出会って、その人たちと手紙のやりとりができる。
とても素敵なことだ。夢が叶って嬉しいはずなのに、心は晴れない。
「不安か?」
子爵邸でもずっと黙ってただ立ち会ってくれたウィリアムが、何度目かのリゼットのため息を聞いてそう声をかけてくれた。
「不安……もちろん、不安も大きいです。でも……」
「もし、父親と一緒に暮らしたいのなら、正直にそう言ってみたらどうだ?」
ウィリアムはそう助言してくれたが、リゼットにはわからない。
自分が父と一緒に暮らしたいと思っているのかどうか。一緒に暮らしたいと言われて、父が喜ぶのかどうか。
「ウィリアム様は……先ほど、母の話を聞いてどう思われましたか?」
「亡くなる直前まで手紙を書いていたという話か」
「はい。……やっぱり、ひどい妻、ひどい母親だと思われますか?」
リゼットはどうしてもそう思えないのだ。
娘としては、寂しさを覚える。けれど同じように手紙を愛する者としては、気持ちがわかってしまう。とても責める気にはなれない。
だが、違和感もあるのだ。
リゼットの記憶の中にいる母は、たしかにとても手紙を愛していた。だが家族のことだって、とても愛していたはずなのだ。
思い出の中で笑う母はいつも優しかったし、父を見つめる瞳は柔らかかった。
人生の終わりに家族を切り捨て、手紙だけを選ぶような人だとは思えないのだ。
「どうだろうな……。私が言えるのは、見えている面だけが、その人のすべてではないということだ」
「それは、どういう意味でしょう?」
「戦地に赴く前は臆病で生きて帰るとばかり言っていた奴が、敵を前に先陣を切って戦う姿や、敵を家畜以下だと罵っていた奴が、死にかけの敵兵の遺言を聞いてやる姿を、幾度となく見てきた」
人間はウラやオモテだけではなく、いくつもの面でできているのだろうとウィリアムは言う。
だから父から見えていた母と、リゼットから見えていた母は、ちがうように見えてやはりひとりの人で、リゼットから見えている父もまた、その一面だけではないのだろう。
「私が見ているウィリアム様も、ウィリアム様の一面でしかないのですか?」
「その通りだ。戦場に立つ私の姿は、とてもリゼットには見せられない。他にも情けない面もいくつもある」
「まぁ。ウィリアム様は、どんなウィリアム様でも素敵だと思います」
銃弾と怒号が飛び交う戦場で、軍を指揮し戦う軍神の姿はきっと、恐ろしくも凛々しく輝いていることだろう。
物語の挿絵のように想像してリゼットが言うと、ウィリアムはこほんと咳ばらいをした。
「リゼットは……」
「私にもたくさんの面があるのですよね!」
「ああ。そのはずなんだが、何というか……」
ウィリアムはじっとリゼットを眺めたあと、顎を撫でながら小さく笑った。
「リゼットは、球体のようだな」
「え? きゅ、球?」
多面ではなく、球体。つまり角がなくまあるいということだろうか。
それは結局、一面しかないということになるのでは?
「ええと……どういう意味かくわしく聞いても?」
ウィリアムはなぜかくつくつと喉の奥で笑うばかりで答えてはくれず、球体の謎は深まるばかりだった。
その後、スカーレットの代筆をしながら、子爵邸で父から引き継ぎを受けたり、ヘルツデンの王太子から返事が届いたと呼び出しを受けたりと、思っていた以上に慌ただしい生活となった。
三蹟のひとり、ラビヨンの弟子であるララから「文具店巡りに行かない?」と手紙が来たのは、伯爵邸に戻ってから一週間が経った頃だった。
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