69通目【果てない不平不満】
「お義姉様、なぜこのようなことを……」
「なぜって? あんたの為じゃない。全部あんたの為にここまでしてやったのよ!」
感謝しなさいと笑う義姉は、とても正気には見えなかった。
王宮に自分の手の者を侵入させ、リゼットを王女宮から拉致したのだ。それなのに愉快そうにリゼットを眺め、けれど追い詰められて後がないような切迫感もにじませている。
自分自身を制御できなくなっているような危うさを感じた。
「代筆なんてくだらない妄執に囚われたお姫様を、幼なじみの騎士が救いに行った。あたしはその手助けをしてあげたの」
「何を言って……」
「お姫様はもう代筆なんてする必要がない。騎士と一緒にどこか遠くで手紙でも何でも書いて幸せにくらせばいい。二度と王都には戻らないで済むようにね」
「お義姉様、私はここで、王都で代筆を仕事に独り立ちしたいと――」
「だから、あんたはここにいちゃいけないの!」
癇癪を起した子どものように叫ぶと同時に、大きないびきが響いた。
ジェシカは椅子で寝こける男、ランドンを強く睨むと、その足を勢いよく蹴り上げた。
「このクズ! いつまで寝てんのよ!」
「いっ……!? 痛ぇなくそアマ! 何しやがる!」
「サボってんじゃないわよ! 金に見合った働きをしろっつってんの!」
初めて目にする義姉の粗野な言動に、リゼットは唖然とする。
元々リゼットには意地悪なことを言うひとではあったが、こんなに乱暴な言動をする姿は見たことがない。リゼットが家を出てから、一体義姉に何があったというのだろう。
「……何見てんのよ。何よ、その目は。まさか、あたしを憐れんでんの?」
「お義姉様。なぜですか。なぜこんなことを? 一体何がお義姉様をそこまで追い詰めたのです?」
縛られたまま、必死にジェシカを見上げて問いかける。
しかしジェシカはあきれたような顔で笑った。
「はっ。どこまでお人よしのアホなの? あたしが変わったと思ってる? 残念でしたー! あたしは元々こうなの! こっちが本来のあたし! ……ま、あんたみたいな箱入りには理解できないだろうけど」
「お義姉様……」
「あんただってこっち側に生まれてりゃ、あたしみたいになってたのよ。あんたはただ生まれた家が良かっただけ。でも……たまたま良い家に生まれたからって、不公平じゃない? あんたたち貴族だって、あたしが味わった不幸のひとつやふたつ、知っておくべきだわ」
ジェシカが目で合図を送ると、ランドンがのっそりと立ち上がる。
リゼットの目の前まで来たランドンからは、強いお酒の匂いがした。目も虚ろで、歩みもおぼつかない。相当飲んでいるようだ。
「おい、ジェシカ。何をするつもりだ? 僕らを遠くへ逃がしてくれるんじゃなかったのか?」
「これが終わったら好きな所に行けばいいでしょ。邪魔なんかしないわ」
「リゼットに危害は加えない約束だ! この男、王女宮でもリゼットを殴ったんだぞ!」
「あーうるさい! ボンボン騎士は黙ってなさいよ!」
シャルルを突き飛ばすと、ジェシカは部屋の中をぐるぐると歩きはじめる。
「何をするのが一番いいかしら? 二度と王都に戻ってこられないようにするためには……顔に傷でも作る?」
ランドンが腰から短剣を抜いて、リゼットに見せつけるように刃に舌を這わせる。
ゾッとして目をつぶりかけたが、必死に耐えた。ウィリアムの『落ち着いて状況を判断しろ』という言葉がリゼットを支えていた。
「いや、顔なんかよりももっといい場所があったわね」
にやりと笑ったジェシカが掲げたのは、右の手の平だ。
その意図がわかったとき、リゼットは全身から血の気が引く音が聞こえた気がした。
「右手を使えなくしちゃえばいいんだわ。そうしたら大好きな代筆なんて出来ないもんねぇ?」
「や、やめてください。お義姉様」
「あーでも、代筆できなくても王都にはいれちゃうか。じゃあ……やっぱ、貴族令嬢としてのあんたそのものに傷をつけるしかないか」
ヒールを鳴らし近づいてきたジェシカは、わざとらしく声をひそめて言った。
「ねぇリゼット。あんた、もうあの軍人子爵と寝た?」
「ジェシカ……! お前は何てことを!」
「シャルルだって気になってんじゃないの? 大事な大事なリゼットが処女かどうかさぁ!」
さすがにリゼットも、ジェシカの問いの意味くらいはわかる。
そういった場面、表現がある物語はいくつも読んだし、家を出てからはスカーレットからそういった方面の作法も少なからず教わっていた。
だから、ここでジェシカが問いかけた理由もしっかり想像がついてしまう。
逃げなければ。頭の中でガンガンと危険を知らせる鐘が鳴り響く。
だが、縛られたまま起き上がることさえ出来ないのにどうやって?
「やめろ! リゼットに触るな!」
ジェシカを押しのけ、シャルルが剣を抜きランドンに切りかかった。
ランドンが顔色を変えてシャルルの剣を短剣で払う。怯むことなくシャルルが二撃目を繰り出したが、その刃が途中で壁に刺さってしまう。
狭い屋内で長剣は不利。シャルルが剣を引き抜くよりも先に、ランドンが強烈な蹴りをみまわせた。
「が……っ!」
「シャルルお兄様!」
重い一撃にシャルルの体が吹き飛ぶのを見て、叫ぶことしかできない自分に絶望する。
「お義姉様! 止めてください!」
「わかってるわよ。シャルルには事が済んだあと、あんたを遠くに連れてってもらわなきゃいけないんだから。生かして罪を全部被ってもらわないとねぇ」
「お願いですから、もうやめてくださいお義姉様……。あなたがやっているのは、私ではなくお義姉様自身を不幸にすることです!」
「ああもう、そういう偽善じみた正論はいらないのよ! ランドン、何ぼさっとしてんのよ。さっさとやっちゃって!」
「お義姉様!」
だめなのか。もう義姉にはどんな言葉も届かないのか。
ランドンが下卑た笑みを浮かべながら「金の為だからな。悪く思うなよ」と手を伸ばしてくる。
冷静に、というウィリアムの言葉を守るのは限界だった。これ以上目を開けて現実を見てはいられないと思ったとき、それは聞こえた。
『目をつぶって』
妖精の羽の音と一緒に、小さな子どものような、高く透き通った声がした。
リゼットは知る由もありませんが、運びこまれたのは貧しい労働階級者向け共同住宅の二階の一室です。




