50通目【聖樹の間】
あきれたようにスカーレットに注意を受けたウィリアムは、先ほどから荒んだ表情でブツブツと呟いていた。よく聞くと「オウタイシツブス」と呪文のような言葉を延々と繰り返している。
実は馬車に乗りこむ前からずっとこの調子なのだ。
***
公爵邸でリゼットがドレスに着替え、メイドたちの手によって磨かれ妖精のお姫様に仕上げてもらったあと、ロビーに向かうとウィリアムが待っていた。
いくつもの勲章を飾る軍服ではなく、濃紺のドレススーツを身にまとったウィリアムは、それはそれは凛々しく美しく、階段の途中で思わず足を止めて見惚れてしまうほどだった。
軍帽を脱いだ彼は今夜ばかりは軍神ではなく、妖精の姫をさらう王子様のように映った。
「リゼット」
こちらに気づいたウィリアムは、リゼットに歩み寄りグローブをはめた手を差し出してくれた。
夜空のドレスではなく、妖精のドレスをまとうリゼットを見て一瞬残念そうな顔をしたので、リゼットは申し訳なくなった。
前々から準備してくれていたというのに、こんなことになってしまうなんて。
リゼットもウィリアムに贈られた靴とドレスでデビュタントを迎えたかった。もちろんスカーレットが用意してくれていたことに心から感謝しているし、この妖精のドレスも本当に素敵だと思う。
だが、何度も想像していきたのだ。夢にだって見た。あの青い靴をはいて、ウィリアムと舞踏会で踊ることを。
これからいくらでもそのチャンスはあるかもしれないが、それでも最初に参加する舞踏会、デビュタントで踊る特別な日は、あの靴で迎えたかった。
「申し訳ありません、ウィリアム様」
「リゼットが謝る必要はない。むしろあの人を困らせて楽しむ悪趣味な王太子のほうこそ、リゼットに謝るべきだろう」
「私などを困らせて、何が楽しいのでしょうか……」
「あのクソ野郎のことなど理解できるか」
ウィリアムの口調が荒々しくなったことにリゼットは驚いた。
王太子アンリと口論することはあっても、クソ野郎などと暴言を口にしたことはこれまでなかったのに。しかも虚空を睨む目は、戦場の悪魔そのもの。
舞踏会場でアンリを仕留めてしまうのではと本気で心配になった。
***
それから馬車に乗りこんでもずっとこの調子だ。穏やかにデビュタントを終えられる気がしない。
まさか銃など隠し持ってきていないだろうかと、ウィリアムの全身をじろじろとチェックしているうちに、馬車は王宮に到着してしまった。
前の馬車からロンダリエ公爵夫妻も合流し、舞踏会に参加する貴族たちで溢れかえる前庭を行く。貴族たちはロンダリエ一族を見ると、皆無言で頭を下げて道を空けた。
さすが、王族の流れを組む序列一位の大貴族ロンダリエだ。そこに紛れている自分の場違いさを感じながらも、リゼットは必死に背筋を伸ばした。
ここで小さくなっていたら、エスコートしてくれるウィリアムにも、シャペロンになってくれたスカーレットにも失礼だ。
今日のリゼットは、誰よりも立派な淑女なのだ。そういう魔法をロンダリエの人々にかけてもらった。
「そう気張る必要はない」
肩甲骨のあたりに気合を入れながら歩くリゼットに、ウィリアムが隣で笑った。
いつもはスカーレットのエスコートをしているウィリアムが、リゼットの横にいるのがなんだか不思議な感じがする。
「誰の目も気にするな。リゼットはここに夢を叶えに来ただけだ。他人は関係ない。そうだろう?」
「それで、いいのでしょうか?」
「いいに決まっている。我々は君が夢を叶える手伝いがしたくてここにいる。君の邪魔をする者はロンダリエの威信にかけて排除すると誓おう」
一瞬軍神が顔をのぞかせたので、慌てて「誓わなくて大丈夫です!」と止めた。
胸元に手をやったので、確実に今日も銃を持ってきている。剣は置いてきたようなので、安心していたのだが。
デビュタントを迎えたならば、リゼットは一人前の女性ということになる。
もし社交界の洗礼を受けたとしても、自分で何とかする力を身につけなければならない。いつまでもウィリアムやスカーレットに甘えていては一人前の淑女にはなれないだろう。
「私だって戦えます。何かつらいことが起きても、簡単にはくじけませんから」
「……そうか。勇ましい妖精姫だな」
ウィリアムにそうからかわれたが、姫も戦う時代なのですと言い返す。
さらに笑いを深めたウィリアムが、そっと顔を寄せて囁いた。
「ドレス、似合っている」
「ウィリアム様……」
「すぐに言えずにすまない。お祖母様の見立てが良すぎて悔しかったんだ」
真っ直ぐなウィリアムの言葉に、胸をギュッと掴まれたような気がした。
心には心を返したい。リゼットはエスコートしてくれるウィリアムの腕を強く引っ張る。
「私も、本当はウィリアム様のドレスを着て踊りたかったです」
秘密ですよ、と小さく付け加え、熱くなる顔を隠すようにそっぽを向く。
ウィリアムはしばし無言だったが、やがて笑うような吐息を漏らし、空いている手でリゼットの手を軽く握った。
「次の楽しみにしておこう」
そう言われてリゼットがどんな気持ちになったか、ウィリアムは知らないだろう。
次がある。またウィリアムがエスコートしてくれる。
こんな風にさりげなく次の約束なんてされると、期待してしまうではないか。
ウィリアムの一言に一喜一憂していては、淑女の道は遠のくばかりだ。
しかし、そんないまがたまらなく楽しいと感じてしまうのだった。
***
舞踏会場は、聖樹の間と呼ばれる大広間だった。
はじめてそこに足を踏みいれたリゼットは、その広さと高さにぽかんと口を開けてしまいそうになる。
縦に長い聖樹の間の両壁には、巨大な絵画がびっしりと並べられていた。どれも宮廷で行われた儀式や典礼の一幕を描いたもののようで、王宮史を後世に残す役割も担った空間なのかもしれない。
王立図書館以上に高いアーチ型の天井には、神にこの地を治める命をを受け、山を砕き竜を鎮め、川を引いたとされる初代国王の姿が描かれている。
(すごい。大きなシャンデリアがあんなにたくさん。一、二、三、四……うそ、五十個以上ある⁉)
王宮の豪華絢爛さに慄いているうちに、一行は大広間をかなり進んでいた。
ここまでもやはり他の貴族はロンダリエ公爵家に次々に頭を下げ、黙っていても目の前に道が開かれていく。
基本的に下位貴族から高位貴族に声をかけるのはマナーに反するので、ロンダリエの誰かが声をかけない限り、貴族たちのほうから声をかけてくることはない。
ウィリアムたちに声をかけられるのは、王族くらいなのだ。
「本当にスカーレット様だわ」
「アンベール子爵の隣にいるのは……」
「彼女が王女の指南役なのか?」
「まだ子どもじゃない」
「スカーレット様がシャペロンをされるという噂は――」
ウィリアムにエスコートされるリゼットにも視線は集まっていた。ひそひそと囁き合う貴族たちの姿があちこちに見受けられるが、なぜかいまはそれほど気にならない。
それよりもいまは、はじめて目にする景色に夢中だった。
「まぁ。立派な木が……!」
大広間の奥には、聖樹と呼ばれる木がどっしりと根を張り立っていた。
これはサクラアルという名の、ふんわりと柔く清らかな香りを放つ香木だ。初代国王が神に与えられた、ルマニフィカ王国の国樹でもある。
王宮の舞踏会場には天上の香りが満ちていると本で読んだことがあったが、あれは聖樹の香りのことだったのかと感動した。
聖樹の両側に階段があり、そこから二階に行けるようになっているようだが、その周辺に貴族の姿はない。
不思議に思っているとウィリアムが二階は王族専用なのだと教えてくれる。
いよいよ舞踏会が始まります! リゼットを応援してくださる方はブクマ&評価をぽちっと!




