38通目【壊れないもの】
もう直らないのか。
ジーンならもしかしたら、と期待した心が急速に凍りついていく。
いや、頭のどこかではわかっていたはずだ。こんな無惨な姿になってしまえば、もう元通りにはならないだろうと。
リゼットはただ、それを受け入れられなかったのだ。受け入れられず、商会まで来てジーンにすがり、結果迷惑をかけてしまっただけだった。
「そう、ですか……申し訳――」
「確かに妖精は長く大切にされているものを好みますが、だからと言って物そのものに力を与えるわけではございません。あくまでも妖精が力を貸すのはそれを使う人間。ですからリゼット様はそこまで不安に思われる心配はないのです。どうか落ち着かれてください」
震える手を握られて、リゼットはキュッと唇をかむ。
「大切にしていた万年筆が折れても、妖精は変わらずあなたのそばにいるでしょう」
そう言ったジーンはいつもの三日月目を固定したような笑みではなく、優しく包みこんでくれるような微笑を浮かべていた。
そのとき、ジーンが商会長としてではなく妖精友だちとして、リゼットを慰めてくれていることに気づき、リゼットの心がほろりと崩れた。
「……違うんです。そういうことが、不安なのではなくて。私は、妖精さんが、母との思い出の万年筆が壊されてしまって、とても傷ついて、悲しんでいるのではないかと思って……」
リゼットでさえあんなにショックを受けたのだ。
自分よりもっと長く万年筆とともにいただろう妖精の気持ちを考えると、胸が潰れそうになる。
「でも、私には妖精さんの姿が見えないから、慰めることも、抱きしめることもできなくて。私に出来るのは、万年筆を直せないか、ジーン様にお聞きすることしか……」
「リゼット様……申し訳ありません。私は心得違いをしておりました」
そう言われ、リゼットがどういうことかと戸惑っていると、ジーンは立ち上がりリゼットの隣に移動してきた。
彼はモノクルを外すと、露わになった左目をこちらに向けた。
「ジーンさん、瞳が……」
先ほどまでグレーだった瞳が色を変えていた。
青、黄色、オレンジ、緑といくつも混じり合い、豊かで複雑な色彩を閉じこめたような不思議な瞳だ。見ていると吸いこまれそうな感覚を覚える。
「この瞳は、ワロキエ一族に現れる身体的特徴、“妖精の名残り”と言われるもののひとつです。嘘か真か、我々ワロキエ一族には、代々妖精の血が流れているそうなのです」
「ジーンさんは……妖精さんだったのですか? だからそんなに綺麗なのですね……」
はじめて会ったとき、一目見てガラス細工のような繊細な美貌の持ち主だと思ったのだ。
どこか浮世離れ、人間離れした美しさに感じたのは、気のせいではなかったらしい。
「リゼット様にそのように思っていただけていたとは光栄ですね。……血が流れているからといって、妖精が我々に祝福を与えてくれるわけではありません。ただ、彼らの存在を身近に感じられるだけなのですが、私の場合はこの目のおかげで、少々見えすぎるところがありまして」
そう言うと、彼は左目を押さえた。
こめかみから汗が流れ、顔色が悪くなっていく。
「だ、大丈夫ですかジーンさん? 顔色が……」
「申し訳ありません。この目は、見えるはずのないものが見えすぎて、特殊な素材で作ったモノクルで抑えていないとこのように負担が大きいのです」
恐らく妖精の世界と半分つながってしまうのだとジーンは言う。
人の世界と妖精の世界は光と影のように表裏一体をなしているらしい。隣り合ってはいるが交わらない。しかしジーンの瞳は片方は人の世界、片方は妖精の世界と両方の世界を同時に映すことを可能としてしまうのだそうだ。
ジーンは手を外し、もう一度得も言われぬ美しい瞳でリゼットを見た。
「……いまも妖精は、リゼット様にぴたりと寄り添っているようですよ」
「え……?」
「案外、妖精もリゼット様をお慰めしようとしているのかもしれませんね」
そのとき、リゼットの耳に不思議な音が聴こえた。
薄いガラスを擦り合わせたような、繊細で心地よい涼やかな音色だった。
「いま、何か音が……リーン、いえ、シャラン……ううん、何と表現したら良いのかわかりませんが、とても美しい音がしませんでしたか?」
「それは恐らく、妖精の羽音ですね。その音を聞けたら幸運が訪れるというジンクスがあります」
「妖精の、羽音……」
どうやらジーンには聴こえなかったらしい。
妖精はそうやって、自分の意志で自分の存在をこちらの世界とつなげることがあるのだという。
例えばそれが音だったり、残像だったり、力の一部だったりするのだそうだ。
妖精に選ばれたものだけが、妖精の存在を感じることができる。それが幸運かどうかは別として、とても稀有な事象であるのは確かだとジーンは言う。
ジーンはモノクルを付け直すと、ほっと息をつき汗をぬぐった。
「リゼット様。残念ながら万年筆を元通りにすることは出来ませんが、一からまた妖精との絆を深められる万年筆をご提案することは出来ます。それでは貴女の涙を止めることは出来ないでしょうか?」
胸に真っすぐ届くような真摯な声に、リゼットも頬の涙のあとをぬぐった。
友だちがこんなにも心を尽くしてくれたのだ。ここで応えなければリゼットはジーンの友人を名乗る資格がない。
「ジーンさん……ありがとうございます。やっぱり私、怖かったのかもしれません。見えない小さなお友だちを、自分が大切にできていないんじゃないかって」
「それは見えていてもきっと感じる類のものなのではないでしょうか。相手の心が見えないのと同じように」
「言われてみれば……そうかもしれませんね!」
「良かった、やっと笑顔を見せてくれましたね。リゼット様は笑顔が一番魅力的です」
歯の浮くようなセリフだが、浮世離れした美貌のジーンが言うと物語の王子様のように様になる。
ドキリとしてしまったリゼットの頬に、ジーンの手が伸びてきた。
残っていた涙のあとを指で拭われ、ジーンの白い手袋にしみこんだのを感じたとき、応接室の扉が勢いよく開かれた。
「リゼット!」
飛びこんできたのは、髪を乱したウィリアムだ。
後ろには「お待ちください!」と彼を止めようとする商会員たちもいる。
ウィリアムはリゼットと隣に座るジーンを見て「何をしている」と思い切り眉根を寄せて言った。
ジーンは肩をすくめ立ち上がり、ウィリアムに席をすすめる。
「ウィリアム様⁉ どうして、王宮にいらっしゃったのでは」
「やはり心配になって王宮を出たところで、知らせを受けたんだ。一体何があった?」
「ウィリアム様。こちらを」
「これは……リゼットの万年筆?」
壊されてしまった万年筆を、ハンカチごとジーンがウィリアムに見せる。
ウィリアムはそれを受け取り、ハッとした顔をした。
「まさか……。誰にやられた? あの騎士か」
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