36通目【折られた絆】
リゼットの耳にだけ届くようにかけられたのは、間違いなく義姉の声だった。
なぜジェシカが王立図書館にいるのか。いつもと真逆の地味な装いにかつらまで被り、これではまるで変装ではないか。
ジェシカは本のページに目を落としたまま「こっち見るんじゃないわよ」と低い声で命令する。
「生意気に護衛なんてつけちゃって。勝手に家を出たくせにいいご身分だわ」
「お義姉様……私に何か御用なのですか」
「いいからお勉強を続けるフリをしろって言ってんのがわからないの? あんたの護衛にバレたら、ここで騒ぎを起こすわよ」
ジェシカの脅しともとれる言葉とともに、屈強な体つきの男が彼女の後ろに立った。
見たことのない男だ。服装は小綺麗で一見貴族の従者のようだが、従者には似つかわしくないたくましい体つきや、普段手入れをしていないものを無理やり後ろに撫でつけているような髪に違和感がある。
何よりこちらを見てにやりと歪んだ笑みを浮かべ、舌なめずりをする男には、野蛮な印象しか受けない。
間違いなく、フェロー家の使用人にはいなかった男である。
リゼットはちらりと護衛の騎士をうかがう。まだこちらに気づいた様子はない。
「……言う通りにしますから、万年筆を返してください」
「あんたって、結構冷たいのね」
ジェシカは万年筆を指先でもてあそびながら、そんなことを言った。
意外だった、とも言われ、リゼットは意味がわからず眉を寄せる。
「何の話でしょうか」
「わからないの? シャルルのことよ。あんたのせいで謹慎処分なんて受けて、綺麗な経歴に傷がついた。出世街道からは大きく外れちゃったわね。かわいそうなシャルル。いまごろ可愛がってたあんたに裏切られたこと、謹慎しながら恨んでいるでしょうね」
「……何がおっしゃりたいのですか」
ジェシカは万年筆をもてあそぶ手をピタリと止めた。
「あんたはさぁ、そこにいるだけで人に迷惑をかけんのよ。あんたと関わった人間は不幸になる。シャルルや……あんたの母親みたいに」
「何を、言って……」
「あんたが世話になってる、女伯爵もいずれそうなるわ。だからリゼット、あんたはうちに戻ってくるべきなのよ。デビュタントも迎えていないグズが、王女に指南なんて笑わせるわ。あんたはね、あたしたちの代筆だけしてればいいの。それだけで不幸になる人を減らせるわ」
そう思わない? とジェシカは口調だけはぞっとするほど優しく囁いた。
だがその表情は冷めきっていて、リゼットは何か得体の知れない恐ろしさを感じ、いますぐこの場から逃げ出したくなる。
(でも……)
机の上で拳を握り、一度ぎゅっと目を閉じたリゼットは、恐怖を振り払うよう目を開く。
もう逃げてばかりではいられないのだ。
「それは、出来ません」
「……は?」
「一度お受けした仕事を投げ出して、家に戻ることなどできません。それはあまりにも、スカーレット様や王女様に失礼です。……お義姉様たちが代筆をご所望でしたら、もちろんお手伝いします。そのときはどうぞご依頼ください」
もしかしたら、ジェシカがリゼットに会いに好まない図書館にまで来るほど、手紙の返事が滞っているのかもしれない。
それで帰ってこいと言っているのかも、と思ったリゼットの言葉だったが、ジェシカは動きを止めたまま身体を震わせはじめた。
真顔で小刻みに震える姉の様子に尋常ではないものを感じ、リゼットはパタリと本を閉じた。
ノートや文房具を片付け、ジェシカの手の中にある万年筆を最後に納めるべく手を伸ばす。
「……お義姉様。それを返していただけますか?」
ジェシカはリゼットの問いかけのあと、ようやく震えを止めたかと思えば、万年筆を後ろの男に手渡した。
「あんたって、本当にバカね」
これまで何度も何度も繰り返し聞かされた、リゼットを嘲る言葉が吐き出されるのと同時に、男が万年筆を持つ手に力をこめるのがわかった。
思わずリゼットは音を立てて立ち上がる。
「やめて!」
そう叫んだ瞬間、バキリと砕ける音がした。
破片が男の手からぱらぱらと落ちる。
まるで花を手折るかのように、いとも簡単にリゼットの宝物は壊されてしまった。
あまりにも軽々しく、リゼットの思い出と尊厳は傷つけられたのだ。
あの万年筆で手紙を書いていた、母の姿が脳裏によみがえる。
丁寧に手入れをされ使われていた万年筆。リゼットが受け継いでからも、大事に大事に使ってきた。
きっリゼットに寄り添い力を貸してくれていた妖精も、大切に思っていたことだろう。
突然声を上げて立ち上がったリゼットに、周囲の視線が集中した。護衛騎士が「リゼット様?」と駆け寄ってくる。
「あんたの大切な人をこんな風にされたくなければ、さっさと戻ってきなさい」
愉悦のにじんだ声で言い捨て、ジェシカは席を立った。そのまま何食わぬ顔で男を引きつれ去っていく。
リゼットは砕かれて捨てられた万年筆を前に、ただぼう然とすることしかできない。
「どうしました、リゼット様? いまの令嬢と何か?」
言いながら、騎士が入口の別の護衛に向けて何か合図を送る。
捕まえるか聞かれ、リゼットは震える手で万年筆の残骸を拾いながら首を振った。
たとえジェシカを捕まえたところで、彼女は何も反省などしないどころか、リゼットへの言動を認めることさえしないだろう。それくらいはわかる。
ジェシカの悪意は、気づかないふりをし続けるにはあまりにも強く、執拗すぎた。
「そ、それより、スカーレット様の所へ行ってくださいっ」
「ハロウズ伯爵の……? 王宮に向われるということですか?」
「私ではなく、あなたが。それでウィリアム様に伝えて、スカーレット様を守ってください。早く」
「一体何があったのですか? やはり先ほどの女性が……」
「いいから、お願いします!」
騎士は入口にいたもうひとりが戻ってきたのを見て彼を呼ぶ。
彼を遣いに出すから詳しく話してほしいと言われるが、リゼットは落ち着いて考えることが出来ずに首を振る。ただ、スカーレットとウィリアムが危ないかもしれないから守ってほしいと伝えるので精いっぱいだ。
「わかりました。ウィリアム様にそのまま伝えますから。まずはハロウズ邸に戻りましょう」
リゼットはまじまじと騎士の顔を見つめ、やがて首を振った。
安全なハロウズ邸に戻りたいが、その前にやらなければならないことがある。
「お屋敷に戻る前に、行きたいところがあります。このあと向かう予定だったワロキエ商会に」
「ですが……」
「お願いします。いますぐ行きたいのです。こんな……こんなこと」
万年筆の砕けた小さな欠片もあますことなく拾い、ハンカチに包んで胸に抱く。
(ごめんなさい、本当に、ごめんなさい……っ)
心の中で謝罪を繰り返しながら、リゼットは唇をきつく噛みしめる。
誰に、何に謝っているのか自分でもはっきりとしないまま、何度も何度も謝った。
「ワロキエ商会に、行きます」
彼なら、もしかしたら――。
モノクルの美貌の紳士を思い浮かべたリゼットは、彼に一縷の望みをかけて歩き出すのだった。




