35通目【リゼット・フェローの責任】
護衛をともない王立図書館を訪れたリゼットは、密かにうきうきしながら入口で入館証を見せた。
ウィリアムに作ってもらったピカピカの入館証に、入口の職員が「ようこそ」と笑顔で対応してくれる。
自分の入館証で王立図書館に入れることが、自分が大人になった証明のようで何だかとても誇らしい。
ついてきた騎士のひとりは入口で見張り役をすると言う。もうひとりがリゼットそばを付かず離れずで護衛することになった。
本を運ぶのを手伝ってくれるのは、ウィリアムと同じか少し年下くらいの若い騎士だ。笑顔だが口数は多くなく、静かな図書館の中に溶けこんでいる。
(騎士さんがいるなら、あの奥の秘密基地みたいな場所の机は使わないでおこう)
ステンドグラスが美しい、そこだけ空間が切り離されたような不思議なスペースにある机。あそこならきっと集中して勉強できるだろう。
だができれば誰にも知られたくない、秘密のままにしておきたい場所でもあるのだ。
「フィルさん、こんにちは」
「やあリゼットちゃ――リゼット様。王立図書館へようこそ」
受付の奥にいた副館長のフィルに声をかけると、彼は嬉しそうに飛んできてくれた。
気さくに呼ぼうとして、慌てて恭しく礼をとるフィルに笑う。
「リゼットちゃん、で構いません。先日はありがとうございました。いただいたノートを眺めていたら、あの頃のことを少し思い出すことができました」
「お役に立てたのなら良かったです。リゼットちゃんは、今日はどのような本をお探しで?」
「ヘルツデン語の本が読みたくて。ジャンルは問わず、正しく丁寧なヘルツデン語で書かれた本を探しています。あとは、ヘルツデンの文化がわかるようなものもあると嬉しいのですが」
「ヘルツデン語の本であれば、七の列、五番の棚に揃っていますよ。ご案内しましょう」
フィルはわざわざ受付から出てきて、目的の棚まで先導してくれた。
騎士が少し距離を置いてついてくるのを確認していると、突然フィルに「おめでとうございます」と祝われ戸惑う。
「フィルさん……?」
「失礼しました。リゼットちゃんが、王女殿下の指南役になったと耳にしたので」
「えっ。フィルさん、どうしてご存じなのですか?」
指南役については特に大々的な場で公表されたわけではない。
王宮内でなら知る者も多いかもしれないが、あくまで噂で広まっている程度なのだ。
「当館に来られるのは貴族のお客様ばかりですから。実は貴族社会の情報が簡単に集まったりするのです」
おしゃべりな常連さんが多いので、とフィルは片眼をつむり笑う。
なるほど、フィルはそんな貴族の常連の話し相手になっているということか。ということは、貴族の間ではすでにリゼットの名前が王女殿下の指南役という役職名とともにかなり広まっているらしい。
どこで誰に見られているかわからない。
レオンティーヌやスカーレットの顔に泥をぬるようなことにならないよう、気を引き締めなければ。
そう思った途端、両肩にずしりと覆いかぶさってきたのはいままで感じたことのないもので。
(これが責任を負う者が味わうプレッシャーのひとつなのだわ……)
正直、少し恐ろしい。けれど自分の足で立っている、という実感も同時にわいた。
分不相応だとわかっていても、くじけて放り出すようなことは絶対にしたくない。
恐ろしくても手放したくないものがあるということを、リゼットははじめて知るのだった。
「リゼット・フェローとは一体何者なのか、と社交界ではリゼットちゃんの話題で持ち切りだそうです。三蹟すら凌ぐ、とんでもない天才が現れた、と」
「そんな、恐れ多い……」
「聞いていて、さすがリゼットちゃん誇らしいやら、こんなに小さなリゼットちゃんがそんな大役を務めるなんて、と心配になるやら……。でもセリーヌ様は、あとうちの元館長も、きっと喜んでいますね」
「あ、はは……」
どうやらフィルには、まだリゼットが膝丈ほどの幼い子どもに見えているらしい。
これは早急に身長を伸ばす方法を探さなければと心に誓う。
デビュタントを迎えられたとしても、小柄なままでは淑女扱いをしてもらえなさそうだ。
フィルと別れ、ヘルツデンの本が並ぶ棚からいくつか本を抜き取り、近くの長机が並ぶスペースへと移動する。
本を運ぶのを手伝ってくれた騎士にお礼を言うと、彼は無言のまま笑顔で礼をし、また距離をとり周囲の警戒に移った。
さすがロンダリエ公爵家の騎士は配慮が行き届きスマートだ、と騎士の姿を目で追っていると、不意に「あれが王女殿下の?」という小さな声を耳が拾った。
聞こえていないふりをしながら席に着く。耳をそばだてていると、あちこちで自分の噂話がされていることに気が付いた。
「フェロー子爵の実子で……」
「本当に? まだ子どもじゃない」
「デビュタントも済ませていないらしい」
「そんな子どもが大丈夫なの?」
やはり、リゼットがデビュタント前の未成年扱いであることを気にする貴族は多いようだ。
自由を手にするために越えなければならない壁が、次から次へと立ちはだかる。
だが、くじけている暇はない。やるべきことは山ほどあるのだ。時間があるならひとつでも多くそれをこなさなければ。
そこからは、持参したノートにヘルツデンの重要だと思う情報を書きこむ作業に集中した。
母の形見のひとつである万年筆は、さらさらと流れるような書き味で、リゼットが大切に愛用している一本である。
深い緑に鈍く光る金の装飾がわずかにほどこされているそれは、どちらかというと地味な見た目ではあるが、腕が疲れにくい適度な重みのとても実用的な万年筆なのだ。
書き進めるほど集中度は増し、いつの間にかリゼットは周りの音が聞こえなくなっていた。
それなりに人の出入りがある王立図書館で、足音や小さな話し声、誰かが本のページをめくる音など、ひとつひとつは小さくても実はたくさんの音で溢れているのだが。
人の動きもまったく目に移らなくなっていたリゼットだったが、斜め前に人が座り、机が少し揺れたことでハッと我に返った。
「あっ」
その拍子に万年筆を取り落としてしまう。
テーブルから床に落ちてしまった万年筆を慌てて目で追いかける。傷ついたり、中で折れたりしてしまったら大変だ。
万年筆を拾おうと、机の下を覗きこんだリゼットの目に、緑の万年筆を拾い上げる手が移った。
斜め向かいに座った人が拾ってくれたのだと、リゼットは顔を上げてお礼を言おうとして、ギクリと固まった。
斜め前に座っていたのは、黒く波打つ髪の女性だった。露出や飾りの少ないドレス姿の、貞淑な夫人のような出で立ちだが、よく見るとかなり若い。
リゼットと同じか少し上くらいに見えるその女性は、髪の色や雰囲気はまるで違うのに、義姉ジェシカにあまりにも似すぎていた。
文字なんて見たくもない、本など重いだけの邪魔なものだと言っていたあのジェシカが、王立図書館になどいるはずがない。そう思おうとしたのだが——。
「元気そうじゃない、リゼット」




