12通目【妖精のペン】
7/29 修正
ガス灯やオイルランプに明かりを戻していくと書斎はすっかり明るくなったが、まだまぶたの裏に青白い星座が輝いて見えた。
あの星座を読み解きながら、アンナが少しでも元気になってくれることを願う。
「やはりリゼットはセリーヌと同じかもしれないね」
「え? 母と……ですか?」
何のことだろうと首を傾げるリゼットに、スカーレットは絵本を手に取り「これさ」と言った。
この国でいちばん有名な絵本である『妖精のペン』は、あるひとりぼっちの少女が、国中の人々に手紙を出すお話だ。
ひとりが寂しくてたまらない少女は、仲良くなれる友だちを求めて、毎日毎日たくさんの手紙を書くのだが、誰も少女のことを知らないので、返事をくれる人は現れない。
とうとう、あとひとりを残しすべての人に手紙を出し尽くした少女は、どうか最後の人の心に手紙が届きますようにと、強く願いながら手紙を書く。
するとたくさん使われたペンを気に入った妖精が、不思議な力をペンに与えるのだ。
妖精の力が宿ったペンで書かれた手紙を受け取ったのは、少女と同じくらいの年の病気がちな少年で、手紙を読んだ少年はなぜか元気が湧いてきて、お礼の手紙を少女に出す。
やがて少女の手紙に不思議な力があると知れ渡り――と、そんな内容の童話だ。
「昔、人と妖精は共存していたことは知っているね?」
「聞いたことはあります。妖精は人間にとってよき隣人だったけれど、いつしか姿を消してしまったと」
「そう。妖精は姿を消してしまったが、それは人間の目には見えなくなっただけで、彼らはまだ私たちのよき隣人としてどこかで生きているんだ」
それこそ童話のような話だが、スカーレットの顔は真剣そのものだ。
だが、彼女は一体この話で何を伝えようとしているのだろう。
「文字に特別な力を宿らせる、特別な人間がいると言ったら、リゼットは信じるかい?」
試すような視線に、リゼットも真剣に答えるべく背筋を伸ばした。
「信じます」
「迷いがないね。なぜだ?」
「そのほうが、私が嬉しいからです」
妖精はいる。もしかしたら花畑の中に、書棚の間に、そして自分のすぐ隣に。
そうだったらどれだけ幸せで、わくわくした気持ちになれるだろう。妖精と話すことができたなら、いや、話せなくてもリゼットは彼らと友だちになりたかった。
「そうか、嬉しいからか。しかし妖精はすべての人の良き隣人ではない。彼らは選り好みが激しく、彼らのお眼鏡にかなう心を持つ者でなければ、彼らの力を借りることはできないんだ」
そう言うと、スカーレットは震える右手で文机の上のペンを撫でた。
大切な宝物に触れるようなその手つきを見て、リゼットはハッとする。
「もしかして……三蹟とは、その特別な力を宿らせられる人たちなのですか?」
スカーレットは微笑み「私にもうその力はないがね」と肩をすくめた。
ウィリアムは知っていたのか、動揺する様子はなく黙っている。だとしても、なぜそんなに平然としていられるのだろう。
リゼットはすごいことを聞いてしまったと、叫びたいのを我慢して口元を手で覆った。ドキドキと心臓が激しく鳴っている。
自分はいま、三蹟の秘密に触れているのだ。
「妖精の力があるから三蹟に認定されるわけではないよ。三蹟とはあくまで巧みな筆跡と文章の才がある者のただの称号だ。結果的に妖精の力を宿した者がいま三蹟となっているだけに過ぎない」
「妖精の力があるから三蹟であるわけではなく、元々の才がある方に妖精の力が宿る……ということでしょうか?」
「どちらが先かはわからないがね。……それより、本当に信じるのかい?」
意外そうに言われて、リゼットは目を瞬かせた。
「えっ? 嘘だったのですか?」
「嘘ではないが、簡単にそれを証明できるわけでもないからね。荒唐無稽な話だと笑い飛ばされても仕方ない」
「そうでしょうか? 私はなんて素敵なことだろうと、わくわくしました! 大好きな絵本が、実は事実だったなんて!」
ということは、きっと絵本の作者も妖精の力を宿すことが出来る者だったのだろう。
作者不詳とされているが、どのような人物だったのかとても気になった。古い絵本なのできっと作者はこの世にはいないのだろうが、生きていたら話を聞いてみたかったくらいだ。
リゼットの反応に、スカーレットはほっとしたように笑った。
「リゼットが素直な子で嬉しいよ。三蹟はそれぞれ妖精の力を理解しているし、感じることもできるが、他の者に説明しようとすると難しいんだ」
「三蹟の皆様にはわかるのですね。いいなぁ、どんな感じなんでしょう……。本当にうらやましいです」
「リゼットにもきっとわかるよ。お前はまだ、違いを知らないだけさ」
確信しているようなスカーレットの様子を、リゼットは不思議に思った。
妖精の力が宿る手紙と、そうでない手紙に、明確な違いがあるということだろうか。
「違いを知れば、わかるようになるものなのですか?」
「ああ。お前はわかる。だがほとんどの人はわからない。ただ、感じるだけだ」
「感じる……? なぜわたしにはわかると? 私はわかるどころか、感じたこともありませんよ?」
これまでもたくさんの手紙を目にしてきた。
どれもリゼット宛のものではなく、継母や義姉、ときには父宛のものと、とにかくフェロー家にくる手紙の大部分はリゼットが目を通し、返事を出している。
もちろん筆跡はひとりひとり違うが、そういうことではないのだろう。この方の言葉の選び方が好きだなとか、この詩の引用が素敵だとか思うことはあるが、そういうのとも違うのだろうか。
スカーレットはそこで、ウィリアムに指示を出し手紙を七通、長机に並べさせた。それぞれ違う筆跡で書かれた手紙は、すべてスカーレット宛のものだ。
「この手紙の中に、他とは“違う”ものが一通だけある。手に取って考えてみてごらん」
「一通、ですか?」
リゼットはちらりとウィリアムをうかがうが、無表情で長机に視線を落としているだけだ。
彼も“違う”ものがわかるのだろうか。
リゼットは一通一通手に取ってみた。どれも素晴らしい筆跡の手紙で、それぞれ別の魅力に溢れている。どの手紙も、王都へと戻ってきたスカーレットを祝い、体調の回復を喜ぶものだった。
「ウィリアム。お前にはわかるかい」
リゼットと一緒に手紙を眺めていたウィリアムは、すぐに首を横に振る。
「私にはどれも同じに見えますね」
「字が違うことぐらいはわかるだろう。リゼットはどうだ?」
静かにスカーレットに促され、リゼットはうなずいた。
どこがどう“違う”と、説明できる自信はない。だが、はっきりと“違う”ということがわかるものがある。これまで目にしてきたどの手紙とも違う。引きつけられるような、温もりを覚えるような、文字が淡く輝いて見えるような。
「どれも素敵な手紙ですが、その中でもこの手紙……私には“違う”と感じました。何がどう、とは言えないのですが」
左端から二番目の手紙を手前に寄せる。海のような深い青の封筒に、シンプルな白い便せんの手紙には、きっちりと高さの揃った文字が並び、選ぶ言葉も堅めで厳格な人柄を想像させるような内容だった。
それでも内容はほぼスカーレットの心配だったので、優しい人なのだろう。
教書のような筆跡は、精密と言って良いほど整っていて、それもまた美しいものだ。
「大丈夫。それでいい。ただ“違う”ことがわかるという事実が重要だ」
「でも、あの……やっぱり気のせいだと思います」
リゼットは何だか申し訳なくなり、首を振って俯いた。
先ほどは確かに“違う”とわかったが、恐らく自分の勘違いだ。
「……なぜ、気のせいだと思うんだい」
「それは……“違う”と感じたお手紙が、一通だけではなかったからです」
リゼットは、右端のミントグリーンの封筒に、黄色のマーガレットの絵が描かれた便せんの手紙を、最初に選んだ手紙の横に並べた。
マーガレットの手紙は先ほどの海の青の手紙とは真逆で、ふんわりと柔らかな筆跡だ。友人との再会を喜ぶ詩が引用されている。ただし選ぶ言葉は筆跡のイメージとは違い、なかなかに強くスカーレットを鼓舞するようなもので、自分にも他人にも厳しそうな印象だ。
しかし厳しさは優しさであり、スカーレットを元気づけようとするたくましくも温かい人なのだろう。
まったく別人による二通の手紙の両方を、リゼットは他とは“違う”と感じたのだ。
一通だけのはずなのに、リゼットには正解がどちらかわからない。だから、もしかしたらどちらも正解などではなく、リゼットの感覚は気のせいではないかと考えたのである。
「ご期待に添うことができず、申し訳――」
「それでいいんだよ、リゼット」
「……え?」
スカーレットは満足げに微笑み、リゼットの肩を抱いた。
そして海の青の手紙をまず指し示した。
「これはカヴェニャークからの手紙だ」
「カヴェ……カヴェニャーク!? 三蹟のおひとりの⁉」
「そう。知らせていないのに、私が王都に戻ってきてすぐ、最初に手紙を送りつけてきたのが奴だった。まだ妖精の力は残っているね」
文字に宿った妖精の力は、時間の経過とともに薄れていくらしい。
本当に不思議な力だと、リゼットはカヴェニャークからの手紙をじっと観察した。
こんな風に宝物を見ることが叶うとは。リゼットにとってはお宝中のお宝、国宝、いや世界の宝と言っても過言ではない。
「ちなみに私とカヴェニャークは犬猿の仲だ」
「そうなのですか? でも、こうやって素敵なお手紙のやり取りをするご関係なんですね!」
「……コホン。そしてこちらの手紙は、ラビヨンからのものだ」
「ラ、ラビヨン様まで……!
「すまないね。一通だけではリゼットが確信できないと思って、嘘をついた。本当は“違う”手紙は二通だったんだよ」
少しきまり悪げなスカーレットの告白に、リゼットは目を丸くした。