1通目【置いてけぼり】
『手紙のやり取りは、心のやり取りよ。だからこそ、手紙には人を幸せにする力があるの』
それが亡くなった母の、手紙をこよなく愛した母の、口ぐせだった。
***
薄暗い部屋に、カリカリとペンの走る音が静かに流れる。
使いこまれた文机で、リゼット・フェローは手紙の返事を書いていた。
机には返事待ちの手紙が塔のように積まれている。二人分なので数も二倍なのだ。
手紙は読むのも書くのも大好きだ。それなのに、最近は手紙を書けば書くほど、自分の中の何か大事な部分が削られていくのを感じていた。
「あなたも素敵なお手紙なのに、書いた相手に読まれないなんて悲しいわね……」
それは手紙の差出人にというよりも、手紙自体に向けた言葉だった。
この手紙たちはすべて、リゼットではなく別の人物に送られたものだ。
メリンダ・フェローと、ジェシカ・フェロー。ふたりはリゼットの血の繋がらない家族で、継母とその連れ子にあたる。
リゼットの実母はリゼットが七つの頃に病気で亡くなった。
母が亡くなった三年後、子爵の父が後妻に迎えたのが裕福な商家の出のメリンダだ。連れ子のジェシカはリゼットのひとつ年上だった。
メリンダたちは貴族の社交には手紙のやり取りが必須と知ると、母譲りの美しい筆跡のリゼットに代筆を任せてきた。
貴族が代筆を使うのは実は珍しいことではない。|だからリゼットも、家の為に役に立てるならと喜んで引き受けた。
母が亡くなり、父も仕事であまり帰らなくなり、家の中で居場所を失ったように感じていたリゼットは、継母や義姉と仲良くなりたくて必死だったのだ。
けれど、ふたりはリゼットに代筆を任せるだけで、手紙を自分たちで読むことはほとんどなかった。
『お前が手紙の中の重要な部分だけ教えてくれればいいわ。お茶会の誘いならその主催者と開催日時と場所、ドレスコードとかね』
『それは構いませんが、近況の部分なども覚えておかないと、実際にお会いしたときに困りませんか……?』
『リゼットは本当に世間知らずね! そんなもの、話を適当に合わせればいいのよ。いちいち手紙の相手全員の近況なんか覚えていられるわけないじゃない』
以前ふたりにこのように言われ、手紙を愛するリゼットはとても悲しかった。
だからリゼットはいつも、返事を書くときは目いっぱい真心をこめる。せっかく書いてくれた手紙を蔑ろにしている、という罪悪感から生まれた誠意でもあった。
「い……っ! はぁ、今日も書きすぎたかな」
最近どんどんメリンダたち宛の手紙が増えて、その返事を一日中書く日が続き、腕に痛みが出るようになった。ひとりぼっちで痛みに耐えながら書いていると、時々くじけそうになる。
インクが減ってきたことに気づきいたとき、ふと扉の向こうがにわかに騒がしくなったのを感じ、リゼットはインク壺を持ってそろりと部屋を出た。階下を覗くと使用人が慌ただしく行き来している。
高く響く義母姉の笑い声を聞きながら階段を下りていくと、明るいロビーに人が集まっていた。
「あら。リゼット、手紙の返事は書き終わったの?」
華やかなドレスで着飾った継母がこちらに気づいて軽く睨んできた。
「いいえ、まだです」
「じゃあどうして部屋から出てきたの? 私たちが帰ってくるまでに終わらせておいてちょうだいね」
「はい、申し訳ありません。……お出かけですか?」
「見たらわかるでしょ! 舞踏会よ、舞踏会!」
小ばかにするように言ったのは、義姉のジェシカだ。こちらも派手なドレスと大ぶりな宝飾品で飾り立てている。
そのジェシカの隣には、柔和な笑顔の美青年が立っていた。
「やあ、リゼット。良い夜だね」
「シャルルお兄様! いらしてたんですね」
シャルル・デュシャン。伯爵家の次男で、リゼットの二つ年上で十八歳になる幼なじみだ。
王国で近衛騎士隊に所属しているシャルルだが、騎士というよりまるで王子様のようなルックスで、いまもっとも令嬢たちの間で人気のある未婚の男性らしい。
らしい、と言うのはその情報が義姉への手紙の内容から知ったものだからだ。
ジェシカ宛に「ぜひシャルル様を紹介してほしい」というような手紙が数えきれないほど来ているのである。
「どうしたの、リゼット。何だか顔色が悪いね?」
「えー? そう? いつも通りじゃない? リゼットは部屋から全然出てこないから、不健康な顔色になるのよ」
無邪気そうな笑顔で言う義姉に、シャルルは納得したようにうなずいた。
「それは一理あるな。リゼット、手紙や本を読むのもいいけど、たまには外に出て日の光を浴びたほうがいい」
「……ええ。そうですね」
「ねぇ、シャルル。もう行きましょ。舞踏会に送れちゃうわ」
「そうだな。じゃあリゼット、またな」
大きな手でポンポンとリゼットの頭を撫でて、シャルルは義姉をエスコートし継母と笑顔で会話しながら子爵邸を出て行った。
集まっていた使用人もパラパラと解散していき、ロビーにひとりになったリゼットは小さなため息を落とした。
「やっぱり“リゼットは行かないのか?”とは、聞いてくれないのね……」
リゼットはまだ、舞踏会に行ったことがない。
貴族の令嬢は十六歳の年に舞踏会でデビュタントを済ませるのが習わしだ。
リゼットは今年その十六歳になったのだが、いまだ舞踏会への参加を許されていない。淑女教育がまだ済んでいないから、とメリンダに止められていた。
実際にダンスは踊れないのだから仕方ない。マナーや立ち振る舞いは母が生きていた頃生活の中で教えてもらった程度だ。
以前は父が手配した家庭教師から淑女教育は受けていた。しかしダンスレッスンが始まる前にメリンダが後妻に入り、家庭教師を義姉専属にしてしまったのだ。
元々平民だったジェシカに家庭教師はもちろん必要だと、リゼットもいっときは納得した。
しかし義姉が先にデビュタントを済ませたあと、継母は家庭教師を解雇してしまった。リゼットはダンスを学ぶ機会すら失ってしまったのだ。
だから今夜のように舞踏会や夜会に行く彼らを、リゼットはいつも見送るしかなかった。
社交界に特別な憧れがあるわけではない。手紙を書いたり本を読むことのほうがリゼットにとっては幸せなので、舞踏会に行けないことが悲しいのではない。
悲しいのは、自分という存在が誰の中にもないように感じることだ。
こんなに手紙が大好きで、たくさんの手紙を読んでいても、その中にリゼット宛の手紙は一通もない。代筆のために邸にこもってばかりのリゼットには、手紙を出す相手もいない。
幼なじみのシャルルも、いまだデビュタントを迎えられずにいるリゼットを疑問に思うことがない。だから義姉をエスコートし、リゼットをひとり邸に置いていく。
「シャルルお兄様の幼なじみは、私なのになぁ……」
シャルルが貴族の子弟が通う寄宿制の学校に入るまでは、よく邸に遊びに来てくれた。
母親同士の仲が良かったので、よくお茶会やピクニックをした。伯爵家所有の馬場に仔馬を見に行ったり、馬術を習うシャルルを応援したりもしていた。
だがシャルルの入学後にリゼットの母が亡くなり、継母たちが来てから自然と伯爵家とは疎遠になってしまった。
シャルルが卒業して子爵邸に顔を出すようになっても、ジェシカがすぐにシャルルを連れて行ってしまう。
もうピクニックにも馬場にも誘われることがない。
「本当は、シャルルお兄様にダンスの練習相手になってほしかったけれど……」
恐らく、それが叶うことはないだろう。
シャルルは幼い頃から変わらず優しいが、それはリゼットにだけ向けられるものではない。ジェシカにも、きっと他の令嬢たちにも彼は優しいだろう。
仕方ないのだ、とリゼットは自分に言い聞かせ、グイっと上を向いた。
泣きたくはなかった。泣いたらもう、二度と前を向くことが出来なくなってしまう気がする。
「大丈夫。私には手紙があるじゃない」
たとえそれが自分宛ではなかったとしても、誰かの手紙を読み、誰かの為に心をこめて手紙をしたためている間だけは、孤独を忘れていられる。
手紙さえあれば幸せなのだ。そう自分に言い聞かせた。
「さあ、インクを足してお返事の続きを書かなくちゃ」
そう気合を入れて備品庫に向かおうとしたリゼットの耳に、外から馬の蹄と車輪の音が聞こえてきた。