心の墓標
アイスレモンティーの氷が、涼やかな音を立てた。
「どうぞ」
御国ちゃんの目はまだ赤い。僕は一口レモンティーを流し込んだ。
「で、なにがあったんだ?」
御国ちゃんは笑った。
「悲しい時に笑う癖、昔と変わらないね」
彼女がそれを言いたくないのなら、それでいい。
『泣くものと共に泣き、喜ぶものと共に喜ぶ』これも聖書にある言葉だが、慰めというのはこういうことを言うのかもしれない。
今はただ、その悲しみに寄り添う。
心が同調するのなら、言葉などいらない。
「えへへ。英知君が来てくれたから、もういいや」
はぐらかされた。
そんな気がした。
これではその悲しみに寄り添うことはできない。
ここからは入れないのだとはっきりと線を引かれたようだった。
彼女は泣いている。
ずっと彼女を見続けてきた僕だからわかる。
彼女は悲痛なほどに泣いている。
――――なら、なぜ君は僕を呼んだ?――――
その細い手首を捕まえて、そう問うてみたかった。
「ねえ、英知君せっかく来てくれたんだからさあ、勉強教えてよ」
「え? ああ、うん。いいよ」
そう問えなかったのは自分へのエゴだ。
彼女に嫌われるのが恐かった。
僕は右手につけたリストバンドを見た。
WWJDの文字が編みこまれている。
これは「What would Jesus do?」という言葉の略である。主に青年のクリスチャンがリストバンドやアクセサリーにこの文字を彫り、好んで身につけている。常に「イエス様だったら、どうするか?」の視点に立ち行動できるようにと自戒するのである。
僕は短く心の中で神様に祈った。
それがクリスチャンの僕にとって、彼女の為にしてあげられる最大のことだった。
――――自分の思いではなく、あなたの御心がなりますように――――
我ながら、不思議な祈りだと思う。
そう思うとキリスト教とは「死ぬ」宗教なのだ。新約聖書の福音書に『誰でも私の弟子になりたいのなら、自分を捨てて自分の十字架を負い、そして私についてきなさい』という言葉がある。クリスチャンは罪人だ。正確には自分の罪を自覚した人たちなのだ。キリストを信じても、罪を全く犯さなくなるわけではない。だからその罪を神の前に持っていく。そして死ぬのだ。毎日、毎分、毎秒、キリストの十字架を想い、死ぬ。
そんなとき、僕は一面に立つ無数の墓標を思い浮かべる。そこに葬られている僕の罪の思い。僕はもう何度死んだことか。だけど自分に死ぬと楽になる。穏やかで平安な気持ちになることができる。だからきっといつの日にかやってくる本当の肉体の死を恐れることはない。まあ、死に至るまでの苦痛は恐いのだが。
「へえ、ジーン・ウェブスターの『足長おじさん』かあ」
僕は御国ちゃんが持ってきた教科書に目を通した。




