失恋
中庭の新緑が眩しい。
あたしは英語の教科書から目を上げた。
中庭に置かれた白いベンチに、市川と佐伯君が腰かけて何かを話している。
胸を焦がす想いは幾分風化し、いや麻痺してしまったのかもしれない。
感情が動かない。
あたしは英語の教科書に向き合った。
人気のない午後の図書館の窓際。この場所が好きだった。現在格闘しているのはジーン・ウェブスターの『Daddy Long Legs』の翻訳。連休明けまでに1冊分を仕上げるのが課題だった。それほど難しいものではないのだけれど、分量は結構ある。第二外国語で選択したドイツ語の翻訳の課題の提出日も迫っていることを考えると、あわやこれは連休を返上で取り組まねばならないかもしれない。
「ふぇ~ん。こんなの絶対終わらない~誰か助けて~」
そういってあたしは机の上につっ伏した。
「俺が教えてあげよっか? ずっとイギリスで育ったし英語は得意だよ」
いつの間にか向かいの席に佐伯君が座って、情けないあたしの顔を覗き込んでいた。
「ちょっと佐伯君!」
声を荒げて市川が佐伯君の隣に座った。
なんだかお気に入りのペットを鎖でつないで、散歩させているおばさんを連想した。
市川の顔は優越感丸出しの笑みが浮かべ、佐伯君の腕に自身の腕を絡めた。
「私たち、付き合っているの」
頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を覚えた。
「そう……よかったわね。市川さん」
やっとのことでこの言葉を紡ぎだせた。
二人の背中を見送って、あたしは教科書を閉じた。
ため息を一つ、思考を切り替えようとした。
なんとなく、今日を一人で過ごすのは嫌だった。
誰かにそばにいて欲しかった。
図書館を出て、あたしは英知君に電話をかけた。
「もしもし」
英知君の声を聞くと、張りつめていた糸が切れてしまって、あたしは泣き出してしまった。
「ちょ……ちょっと御国ちゃん?」
「ご……ごめん。ちょっと色々あって……」
ひとしきり泣くと、あとは何だか照れくさくなった。
「すぐに行くから、今どこ?」
「学校のカフェテリア」
英知君の大学からうちの大学までは駅3つ分くらいしか離れていない。ものの15分ほどで英知君は来てくれた。
カフェテリアがざわつく。
「ねえ、あれK大学の校章じゃない? しかもゴールドだよ」
「超エリートじゃん。しかも顔もけっこうイケてるし」
英知君の通うK大学は超名門大学なんだけど、特に成績の優秀な上位10名には金の校章が贈られる決まりがあった。なにか特別な行事があったのか、スーツ姿にきちんと金の校章を身につけている。
「御国ちゃん」
「英知君、その格好」
英知君はぱっと頬を赤らめた。
「あっと、ちょうど大学の学会の裏方を手伝っていて、そしたら御国ちゃんから電話きたもんだから」
「ごめん! 忙しかったのにほんとごめんね」
「構わないよ。仕事は友人に代わってもらった。それより……場所を移さないか?」
どうやら女子の好奇な視線に耐えきれなかったらしい。
英知君があたしの手を取って歩き出す。
背中がなんだか前より大きく見えて頼もしかった。
胸がトクントクンと高鳴って、暖かで優しい気持ちが溢れてくる。
「英知お兄ちゃん」
思わず呟いた。物心つく前からずっとこうして英知君はあたしの手を握ってくれていた。子供キャンプで迷子になった時も、真っ先に英知君が助けに来てくれて、こうして手を繋いで帰ってきた。虚勢や見栄や、そんなものを何一つ知らなかったとき、あたしは仮面を被る必要はなかった。ありのままに生きて、ただ溢れるほどの愛情を受けていた。遠く過ぎ去った過去は、なんと鮮やかに輝いているのだろう。
幸せだった。確かにあの時あたしは幸せだったのだ。
エントランスで市川と佐伯君にすれ違った。
佐伯の刺すような視線が一瞬英知君を捉え、秀麗な眉目に影を落とす。




