【小説】霧と幻の山へ
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1
一年のほとんどを霧に包まれ、滅多に山頂を見ることができない魔の山と言われる霧幻山は、神秘的な外観と数々の伝承から登山家たちに愛される山である。
都会の喧騒を離れて、ひと時の安らぎを求めてやって来た霧島 蓮は、山小屋を目指して先を急いでいた。
天気が良いうちに山小屋に入りたい。
遭難者が毎年たくさん出る魔の山と呼ばれるだけあって、天気はまったく読めなかった。
今は見上げれば試練の峰をはっきりと視界に捉えられる。
山の頂が見えていると、すぐに辿り着けそうな気がしてくる。
だが、歩けども、歩けども同じスケールで眼前に聳えているのである。
まるで、人生において目標の頂を目指して歩き続けるように。
気象庁の地震火山部火山監視課火山機動観測管理官である蓮は、普段火山の情報をコンピュータで集約し、指示を出す立場である。
庁舎の中で一日中デスクに向かい、決済印を押すデスクワークをしたり、来客対応をしたり、といった仕事が主で、自らの足で火山へ行くことはない。
現場に管理官が来た、というだけで混乱が起こるだろうし、書類仕事が多くて出歩いてなどいられない。
日々データを集め、些細な変化に目を光らせて会議を重ねても、自然を相手にしていると実感させられることがある。
突然の噴火の例としては御嶽山や浅間山が記憶に新しい。
直後から富士山も噴火するのではないかと騒がれた。
登っている霧幻山は休火山だと言われているが、富士山も休火山だから、いつ噴火しても不思議ではないはずである。
仕事柄、心配事で頭がいっぱいになってしまうのだが、山の爽やかな空気が気持ちを和らげてくれた。
足を止めずに両手を広げ、肺の奥まで空気を吸い込み、身体を縮めてすべて吐き出す。
自然と顔はほころんだ。
「ああ、山は良いなあ」
独りごとが口を突いてでた。
茂みにピンクのカライトソウが鮮やかに浮かび上がり、少し大ぶりのムゲンフウロが鈴なりに花をつけていた。
見とれていると足元の石がゴロリと転がって、バランスを崩した。
足元をすくわれるのもまた、人生だろうか。
目指す約束の丘が、いよいよ近づいてきた。
2
眼前にあった試練の峰は、次第に薄ぼんやりとして霧の中へと消えて行く。
目の前に広がる約束の丘には、目の覚めるような美しい花をつけた草原が広がる。
そして、ぽつんと古びた山小屋が建っていた。
緑の草原に、薄汚れた白壁とベージュの切妻屋根の小屋が、ロマンチックな風景を描き出す。
この世の物とは思えない美しさに、ため息が出るほどだった。
小屋に入ると数日分の食料と水を確認して、ミカン箱のような木箱に腰かけてひと心地ついた。
暗い室内には、テーブルと椅子になる箱が隅にきちんと揃えてあった。
パソコンも、冷蔵庫も、水道も、電灯さえもない。
時間がとてもゆっくりと流れる気がした。
緊急用にスマホだけは持っているが、電源を入れるつもりはなかった。
外は束の間、晴れたりするが、ほとんどどんよりとグレーの雲に包まれ、霧が立ち込めていた。
山頂があった方向を見ても、真っ白な霧に閉ざされている。
一つ伸びをして頭の後ろに手を組んだ蓮は、荒い設えの床にゴロリと横になった。
ずっと坂を登ってきたため、足はジリジリと溜め込んだ疲労が波打つ。
このまま横になっているだけでも、充分に休暇を満喫できるな、と思いながら眠りに落ちていった。
霧幻山には、精霊や神様が数多く住むとされ、伝承が多かった。
山小屋がる約束の丘は、恋人同士で訪れて永遠の愛を誓い、幸せを願う場所とされている。
だから壁にはカップルの名前や愛の言葉が無数に彫られていて、古い文字が消えかかると、新しい文字が上書きされ、層を成していた。
蓮は独身だった。
帝都大学理学部を卒業後、国家公務員として日本中を転々としながら気象庁で火山や地震の調査研究に没頭する毎日を送ってきた。
待遇は申し分ないし、思春期に志した仕事に就くことができた。
胸を張って毎日庁舎を闊歩し、部下に指示を出し、責任ある立場になった今、何不自由なく暮らしている。
だが、何かが足りない。
薄暗くて何もないこの部屋は豊かだった。
風の音と土の匂い、窓から見える霧に包まれた風景。
心をいつも緊張させて暮らしていた都会の生活から解放されると、自分自身という存在が自然と一体になって気分が良かった。
3
何人かの登山家が山小屋を訪れ、登山地図やガイドブックを確認し休憩を取って行った。
挨拶を交わす程度で、特に話はしなかったが、習慣で見た目の年齢と服装、背丈と体形などの特徴を頭に入れた。
いつどこで遭難するか分からない難所では、データが命を繋ぐ要になる。
こうしている間にも、天候が急変するかもしれない。
そうなれば、寝てなどいられない。
最も近くにいる自分が助けに行く覚悟はあった。
登山愛好家として最低限の心構えと、火山学者としての自覚はあった。
また静寂が戻るとゴロ寝を始める。
頂上を目指さずに、山小屋でのんびりする者など珍しいのかも知れない。
もう、明日には下山するつもりだったのだが夜になって天候が急変した。
外を覗いてみたが、風雨が凄まじくて視界はほとんどない。
行方不明者がいれば、備え付けの無線に連絡があるかも知れない。
下山直前の急変に緊張が走る。
荷物を引き寄せ、スマホを取り出すとニュースを調べたが、それらしい情報はなかった。
何年も風雪に耐えてきた小屋は、風に軋みもしなかった。
蓮はまた床にゴロリと横になった。
ゴウゴウと鼓膜を打つ風鳴りと、雨がパチパチと地を打つ音に包まれ、いつしか何も聞こえなくなっていく。
そのとき、入口の重い木戸をゆっくりと開ける音を聞いて跳ね起きた。
灯りがない室内に、黒い影が雨粒と共に入り込み、木の床に倒れ込んで呻いた。
「すみません、急な、嵐に、見舞われ、まして ───」
女の声だった。
窓の月明りもないので、姿はほとんど分からない。
とにかく、備え付けの毛布で身体を拭くように、と渡した。
「あの、ここはどこでしょうか」
女が尋ねた。
蓮は一瞬何を聞かれたのか分からず、口をパクパクして声がした方を見ていた。
「どこって」
「山にいるようですが ───」
4
「霧幻山の中腹にある、約束の丘にいます。
嵐の中、この山小屋に辿り着けたのはラッキーでしたね」
女は荷物を持っていないようだった。
憔悴した様子で、かすれ声が震えていた。
「私は霧島 蓮です。
歩けないようでしたら無線で救助を要請しますが」
手探りで緊急用に持ってきた豆炭にマッチで火をつけた。
山では大きな火はNGだから、小さな火種を効率よく使えるネイチャーストーブに放り込む。
これがとても暖かくて、冷えきった体をぬくぬくとさせてくれる。
地獄で仏とはこんな気分だろう。
「あの、綾瀬 凛という人をご存じですか」
人心地がついて、声に張りがでてきた。
ジンワリと赤い火種から一筋の炎がゆらめく他は、動くものがない部屋に、相変わらず雨と風の音が強くなり、弱くなり、小さな小屋を容赦なく叩き続けている。
蓮は逡巡した。
さっき出逢ったばかりの、見ず知らずの他人に尋ねるのだからタレントか何かだろうか。
「いいえ、知りませんが ───」
困惑の色を醸しながら、きっぱりと言った。
普段地上波を見ないし、オリンピックも気付いたら終わっていた、とスルーしている人間に芸能界ネタは通じない。
つまらない堅物だと思われるだろうか。
「ああ、ちょっぴりショックだわ。
じゃあ、やっぱり伝承は本当だったってわけね」
部屋の中が温まってきて、心にゆとりが出てきたのか、彼女は天井を仰いで笑い始めた。
「ねえ、私は47歳だけど、あなたの歳を教えてくれる」
身を乗り出して、蓮に顔を近づけて真っ直ぐに見つめてきた。
戸惑いながら、蓮は答えた。
「35歳、ですけど」
「ねえ、若い頃の相方に逢えるなんて、素敵だと思わない。
私、超ラッキーだわ」
「ちょっと、何を言ってるのか ───」
訝かし気な声色に、彼女はつけ加えた。
「最近の説ではタイムスリップして、未来のことを話しても、未来は変わらないのよね。
だから、教えてあげる。
私たちは夫婦になるの」
蓮は呆気にとられた。
「そして、この山の噴火に巻き込まれて死ぬのよ」
5
管理課の火山対策官まで昇りつめた蓮は、頭に白いものが混ざり始めていた。
気象庁という組織は、体育会系も、キャリアも、昇進のチャンスが平等に与えられる。
国家公務員の中には、未だに薩摩・長州出身を重んじるとか、帝都大出身が幹部をほぼ独占するとかという省庁もあるから、健全だと言える。
反面、予報が外れたとか、災害が目の前で起きているのに対応が遅いとやり玉に上がりやすい面もある。
生活と生命に直結するシビアさがあるから、開かれた組織なのかも知れない。
霧幻山の約束の丘を出たとき、スマホに着信があった。
「凛、どうした。
一応仕事中なんだが」
「うちを出るとき、お守りを忘れて行ったでしょう。
ちょっと、ひっかかっていて、かけてみたのよ」
中腹にある、幻影の祠で拾った石を、お守り袋に収めていつも持ち歩いていた。
外出するときにはいつもカバンやポケットに忍ばせていたのだが、リビングのテーブルに置いたままだったらしい。
「そんなことか ───」
「それと、今日は50歳の誕生日でしょう、おめでとう」
「半世紀も生きると、めでたくもあり、めでたくもなしだな」
休暇を利用して霧幻山へ、若い頃から何度も登っていた。
結婚してからも独りでぼんやりとする時間を、ここで過ごすのが恒例行事だった。
現代人のライフスタイルとしては、ごく普通の感覚である。
家庭があっても一人旅を楽しむ。
そんな余裕が、人生に広がりをもたらすのだ。
幻影の祠の裏手に、時の迷宮と呼ぶ不思議な白い岩の洞窟がある。
入ると時空が歪むとされているのだが、気味が悪くて入ろうという気にはならなかった。
足を止めてぼんやりと輝く岩を眺めていた時である。
ドドーン、と爆発音がしたかと思うと、足元がツイストするように大きく揺れ始めた。
「ねえ、どうしたの。
大きな音がしたけど大丈夫?」
妻の上ずった声がスマホから漏れ出る。
「何だ、あれは。
まずい、逃げろ!」
次の瞬間、轟音と共に通話が途絶えた。
「あなた! 蓮! 蓮 ───」
声が大きくなり、外に飛び出して霧幻山の方角に視線をやると、空が暗くなっている。
臨時ニュースが伝えた。
霧幻山が前触れなく噴火したと ───
6
突然の噴火から1年後、火口付近は立入禁止だったが入山できるようになった。
火山の安全対策を指揮する者がいなくなっても、何事もなかったかのように総務課は再編成されていた。
犠牲者の捜索が行われた当時、幻影の祠付近も火山灰に覆われ、行方不明者は見つからなかった。
凜は忘れ形見となったお守りをしまい込むと、霧幻山へ向かった。
夫は散歩にでも行くように、気楽に訪れていた山は、霧に包まれ足元を確認するのがやっとだった。
事前にスマホに入れていた山岳地図をたよりに、少しずつ進んで行く。
火山灰が積もった場所は、下草もなくなり禿山と化している。
霧が晴れてくると、試練の峰を視界の先に捉えることができた。
何度か話題にしていた光景である。
幻影の祠がある峰まで、陽が高いうちに辿り着けそうだった。
晴れ渡ると空が高くなり、周囲の山々をはっきりと見ることができた。
大自然という巨大な舞台に立つ、小さな米粒のような自分のスケール感を思い知らされた。
慣れない登山で足は熱を持って、一休みしたい気持ちになったが天気が急変する山の事情を考えれば、先を急ぐしかない。
果たして、火山灰を取り除いた部分に、ちんまりと収まった祠を見つけ、駆け寄っていく。
噴火によるダメージか、無数の砕けた跡が生々しい。
お守りを数珠のように親指にかけ、合掌して目を閉じた。
持参した花をバックパックから取り出し、水と共に供えた。
祠の裏手には、輝く白い岩の塊がある。
その下にある小さな洞窟が、時の迷宮である。
実際に目の前にすると、神秘的な輝きを放ち、時空が歪むとされる言い伝えが起こるのも理解できた。
凜はお守りをギュッと握りしめ、バックパックを入口に下ろすと、迷宮の中へと入っていった。
懐中電灯で照らすと、ガラス質の部分が星空のように煌めき、幻想的な風景に心が吸い込まれそうになる。
小さく上へ下へとうねりながら進む洞窟内は、複雑に入り組んでいて進んでいるのか、戻っているのかも分からなくなってきていた。
そして、出口に辿り着いたとき、外は猛烈な嵐に包まれていた。
勇気を振り絞って外に出ると、身を縮めて約束の丘の山小屋を目指したのだった。
7
朝になると、嵐がウソのように晴れ、柔らかい陽射しが降り注いでいた。
そよ風に小さな花が揺れ、空にはポッカリと浮かんだ雲がゆっくりと流れていく。
「幻影の祠が霧の中に浮かぶとき、山の神を鎮める力を宿す。
これは、霧幻山に伝わる伝承の一つです」
朝日に目を細めながら、両拳を空へ突き上げて伸びをする凜は、蓮の言葉を聞いていた。
「私、祠の裏にある時の迷宮をくぐり抜けてきたの。
細い洞窟だったから、バックパックを入口に置いて来たのだけど、出るときにはなかったから時空の歪みを抜けてきたのでしょうね」
近い将来結婚する女性が、歳をとって隣りにいる。
にわかには信じがたい話だが、彼女と肩を並べていると気分が落ち着いていた。
「もう食料も底をついたし、祠と洞窟を通って帰るとします」
何とはなしに、蓮が呟いた。
凜は双眸を見開いて、彼の横顔を見た。
「私ね、あなたに聞きたいことも、話したいことも山ほどあったはずなの。
でも、実際に合うと、こうして一緒にいるだけですべて解決した気になったわ」
約束の丘は、永遠の愛を誓う場所とされている。
心の安らぎを求めて時々やってくる蓮は、不思議な巡り合わせを感じた。
隣りにいる女性に聞けば、自分の将来を垣間見られるのだろう。
世の中がどう変化して行くのか、気にならないわけではない。
だが、この世界とは無関係に存在する、未来の世界とは別の運命を辿るのかも知れない。
だから、黙って足元の岩を踏みしめて歩いて行った。
「ふふ、お互いに、知りたいことがあるはずなのに、黙っているのは一緒よね。
あなたと結婚する前、エリートの堅物ってイメージが強かったの。
でも、ふらりと山へ行って憑き物が取れたような顔して帰ってきたり、山の伝承に詳しかったり、ロマンチストな面もあるんだなって思ったのよ」
「僕は、ずっと必死に勉強して、火山の研究をして、疲れたら山に登る。
そんな狭い人生を送っています。
最期も山で死ぬのなら、この世界のどれくらいを見て生きていくのか、もったいない気もします」
独り言のように蓮は言った。
「祠に願掛けをしましょう。
私の世界にも、あなたの世界にも、価値ある未来が訪れるように」
ポケットから取り出したお守りをぶら下げて、手を合わせた彼女は、そっとそれを差し出した。
「これは、形見の品でしょう」
「本人に言われると、変な気分よね。
いいの、あなたが作ったお守りでしょう。
これを肌身離さず持っていてちょうだい。
そして、噴火に巻き込まれないように身を守ってね」
時の迷宮は、変わらず煌めきを湛え、ポッカリと暗い穴を開けて待っていた。
「じゃあ、会えて良かったわ。
くれぐれも、自分を大事にして生きてちょうだいね」
身を縮めて、彼女は洞窟に入りかけた。
「そうだ、もし長生きできたら、ヨーロッパにでも行ってごらんなさい。
日本とは違う文化に触れて、博物館めぐりでもするといいわ」
振り返らずに、小さく右手をあげて言った。
星屑のように輝く洞窟の中に、彼女の身体が影のような黒い塊に変わり、小さくなって、そして消えて行った。
8
50回目の誕生日を迎えた蓮は、霧幻山を遥か遠くに眺めていた。
そう、今日は噴火するはずだった日である。
半径100キロ圏内に厳戒態勢を敷き、住民を避難させてしまったから、後で散々叩かれるだろうな、などと思いため息をついた。
凜とは突然上司がセッティングしてきた見合いで結婚した。
お互いの人生を尊重し合い、一定の距離感を持っている生活が居心地良い。
昔の友人からは、
「霧島みたいな生活が待っているなら、俺も結婚しようかな」
などと言われる。
あまりピンとこないのだが、幸せとはこういうものかも知れない。
子どもは上が女の子で、下が男の子である。
ヤンチャ盛りではあるが、勉強も手伝いもきちんとするところは、生真面目な両親に似たのだろう。
一旦国家公務員宿舎へ戻り、リビングで缶ビールを一本開けた。
「ニュースになってるわね。
今日噴火するはずだって、気象庁が言い張ったんだって」
「つまり、俺がデマを流したわけさ」
3つ下の凜は、子供服にレースを付ける作業をしながらちらりと視線をよこした。
インターネットで注文を受けて、オリジナルの服をオーダーメイドで作って売っているのだ。
「元はと言えば、君が噴火すると言ったんだぞ」
何を言っているのか分からない、という顔をして妻が手を止めてこちらを見た。
「またあの話?」
そう、結婚前に歳を取った妻が現れたことを何度か話題にしていた。
「信じないかも知れないけど、本当にあったとしか言いようがないよ」
彼女は肩をすくめてミシンの方へ向き直った。
「俺さ、フランスにでも行ってこようかな」
あからさまにフンと鼻を鳴らして妻が言った。
「今日のあなたって変よね。
でも、ちょっと安心したわ」
早速フランス行きの航空券を押さえ、ガイドブックを読み始めた。
明日出勤したら、誰から電話がかかってくるだろう、誰から順番に謝ったらいいだろう、などと半分考えながら、心はヨーロッパへ飛んでいたのだった。
了
この物語はフィクションです