永遠の花冠
ツツジの群生する岩場をぐるりと廻り、浅い窪地の縁をなぞって、鈴ヶ丘の東側へと道が下りていく。
窪地から続く丘の中腹は灌木がまばらで、季節の花を散らした草の絨毯が広がっている。四つ葉が多く見つかるので、昼間には少女たちの姿がよく見られる場所だ。
この浅い窪地を生垣で囲って、フェイフォード王家の墓所があった。
サクラとバラとナナカマドとヒイラギの生垣が人の背ほどの壁を作るよう整えられて、墓地は周囲からはよく見えないようになっている。だが、鉄の格子扉を抜けて奥まで入っていくと、生垣越しに都を見晴らせる場所がある。
全てが闇に沈んだ真夜中には、わずかな灯りの他には何も見えないが。
敷地の奥、西寄りのバラの花壇の横に、八年前に亡くなったムンリット王妃の墓はあった。
「『フェイフォードの喜びにしてシャムロックの最も高貴なる花。ヘーゼル六世王の最愛の君、ムンリット王妃の現世の御身、惜しまれつつここに眠る』」
白銀のプレートに刻まれた墓碑銘を、ムジカ嬢は囁くように読み上げた。
「おかしな文句でしょう? 『現世の』だなんて」
王女は笑った。
墓石を覆うように植えられた野バラは、生前の王妃が特に愛した純白のものなのだが、残念なことにまだ咲いていない。墓石の背後にはハシバミの若木が立っているが、こちらは花の時期がとうに終わってしまっている。
満月の下、王妃の墓地で咲いているのは、墓標に掛けられた銅製の花輪のシロツメクサだけだった。
「王宮で拝見した肖像画でも、シロツメクサの花冠をかぶっていらっしゃいましたね」
思い出したように言うムジカ嬢に、王女は頷いてみせた。
「お庭に遊びに行くと、よくかぶってらしたわ。私の作る花冠はすぐに解けてしまうのに、お母様のはいつまでもきれいなままで。とても羨ましかった……」
シロツメクサなど生えていないはずの、冬のさなかでもかぶっていたように思うのは、あんまりシロツメクサの花冠の印象が強くて、どこかで記憶がすり替わってしまったせいだろう。
「でも宝冠なんて、持ってらしたかしら……それとも、造花で作ってあったのかしら」
公式の場でもほとんど宝飾品を身につけず、代わりに花を飾っていた。この王妃にあるまじき嗜好に、シャムロックの宝石商たちはずいぶんと泣いたらしい。
「指輪も、していらっしゃらなかったのじゃないかしら」
ふと思い出して言った王女に、ムジカ嬢は驚いたふうで目を瞬いた。
「拝見した肖像画では、確か左手の薬指に、銀の指輪をしていらっしゃいましたけれど」
「ええ。お母様が着けてらした、数少ない宝飾品の一つですわ。でも……」
片手を頬に当てて、王女は首を傾げた。
「そう……途切れていたんですわ。輪が繋がっていなくて、手のひらの側に切れ目が入っていて──子供心に、なんて変わった指輪なのかしらって……」
不思議そうに話す王女を見つめるムジカ嬢の瞳から、ふっと表情が消えた。
しかしそれは束の間で、すぐに、薄い唇は微笑の形に引かれた。
「王様と王妃様の間でだけ通じる、何か特別な意味のある指輪だったのかもしれませんわ」
王女は肩をすくめた。
「あのお父様がそんなこと、なさるかしら」
「でも陛下は、案外とロマンチストでいらっしゃるようですから」
そう言ってムジカ嬢は、王妃の墓石に寄り添うように立つ、ハシバミの若木を指差した。
「──そうかもしれませんわね」
囁いて、王女はそっと、ヘーゼルの細い枝先に手を伸ばした。その冷たい感触を確かめるように、葉を指先で弄ぶ。
そのまま振り返らずに、王女は言った。
「これは、バジル夫人には内緒ですけれど」
月明かりの下では、葉の色も枝の形も、不確かで曖昧に見える。
「私、見たことがありますの──いつだったかの夏至の前夜に、お父様が王宮を抜け出して、鈴ヶ丘の方へ行かれるのを……」
王女が振り返ると、ムジカ嬢は驚いた様子で目を見開いていた。
「陛下が、夏至の前夜に……?」
「ええ。傘もささずに」
まるで上の空の様子で、ムジカ嬢は肩で支えた傘の柄をくるりと回し、それから小さく首を傾げた。
「……なぜ、鈴ヶ丘へ?」
「さあ」
王女は肩をすくめた。
「誰にも邪魔されずにおひとりで、お母様の思い出を偲びたかったのじゃないかしら──こんなふうに」
銅の花輪のかかる墓標を、王女は見下ろした。決して色あせることのないシロツメクサ──まるで、王妃がかぶっていた花冠のようだ。
そっと手を伸ばして王女が銅の花に触れていると、ふいに、ムジカ嬢が言った。
「王女様は、どう思っていらっしゃいますか?」
「え──?」
振り返ると、ムジカ嬢は淡い微笑を浮かべて王女を見つめていた。
その瞳が、促すように動いて墓石に落ちる。促されるまま、王女も野バラに覆われた墓石を見下ろした。
「もしも世の噂が真実なら、この下には、土よりほかに何もないことになりますわ」
もしもムンリット王妃が、月の向こう側へ行ってしまったのだとしたら──
「──どうとも」
呟いて、王女はゆるく首を振った。
「真実だろうと偽りだろうと、どちらでも同じことですもの。どちらにせよ、私はここに──月のこちら側にいるしか、できないんですわ……」
言って、王女は少し寂しげに微笑んだ。
「なんて意地悪をなさるのかしら」
ムジカ嬢が首を傾げる。
王女は小さく肩をすくめた。
「私の名前をくださったのは、お母様ですもの」
言って、青い瞳が夜空を見上げる。
空の高みで、プラチナ色の満月は、ただ冴え冴えと現世を見下ろしていた。