ゴブリン・マーケット
プラチナ色に輝く五月の満月が中空にかかる頃。
都の北西に横たわる鈴ヶ丘の中腹で、ゆっくりと歩く青いマントに、黒い傘が追いついた。
「お父上が心配していらっしゃいますよ」
振り返って声の主を確かめてから、デジー王女はくすりと笑った。
「学者さんも、迷信を信じますの?」
肩で支えた傘の柄をくるりと回して、ムジカ嬢も笑った。
「郷に入っては、と申しますでしょう?」
ムジカ嬢が並ぶと、王女はまたゆっくりと歩きだした。
立派な貴婦人同士が出会った際に当然交わされるべき一連のやり取りが、すっかり欠けてしまっているが、どちらも気にしたふうもない。満月の下の鈴ヶ丘で、そんな形式ばった儀礼に何の意味があるだろう。
耳を澄ますと丘のどこかから、楽しげな笑い声が聞こえてくる。まるで子供が遊んでいるようだが、子供の声ではない。
「トロールを仕留めた、東国の王子ですわ」
説明する王女の口調には、自嘲するような響きがあった。
潅木の隙間を縫って続く小道の両脇では、鈴ヶ丘の名の由来となったスズランが、ほのかな芳香を放っている。弓なりの花茎で並んで俯く白い小花の群れを見下ろして、王女は微笑んだ。
「こんなに可愛らしいのに、毒があるのですって?」
「花を挿した花瓶の水さえ、毒になるそうですわ」
少し顔をしかめて答えるムジカ嬢に、王女は首を傾げた。
「毒草はお嫌い?」
「毒はえてして薬にもなりますわ。ただ──小さな鈴は、好きじゃありませんの」
なおも不思議そうに首を傾げる王女に、ムジカ嬢は傘をくるりと回しながら肩をすくめてみせた。
「これらが皆いっせいに鳴り出したら、ずいぶんうるさいと、お思いになりません?」
言って、無作法にも道の真ん中に居座っていた小さな株を、慎重に避ける。その仕草を見て、王女は小さく笑いながら、マントの裾で道端の白い鈴をわざと揺らした。
「ミス・ファーズと、話が合うかもしれませんわ」
「ミス・ファーズ?」
今度は、ムジカ嬢が首を傾げた。
「ヘザー小路の魔女ですわ。スズラン嫌いで有名なんです。理由は、存じませんけれど」
王女の言葉に、ムジカ嬢は納得したふうで頷き、次いでくすりと笑った。
「では、魔女と間違われないように、人前ではスズランのことは言わないようにしなければいけませんわね」
細められたアーモンドの瞳を見返して、王女も笑った。
「お父様の前では、特に気をつけられることですわ。お父様は、魔女がお嫌いらしいから」
「陛下が?」
ムジカ嬢の声は、少し意外そうだった。
「お父様が若い侍女たちに今ひとつ人気がないのは、そのせいですの。王様のご機嫌を憚って、衛兵は誰も魔女を王宮内へ立ち入らせないから──侍女たちはこっそり城下まで出かけなければ、占いができないんですわ」
「王女様も?」
ふいに問いかけられて、王女は見開いた目を瞬いた。
「え?」
「王女様も、こっそり占いを頼みにお出かけになりますの?」
悪戯っぽい口調に、王女も笑みを返した。
「一度、結婚運を占ってもらうべきかもしれませんわね」
笑みを含んだ口調には、自嘲する響きがあった。わずかに俯いた王女の顔を横目に覗いて、ムジカ嬢は再び口を開いた。
「本当に、セイレンの竪琴だのケンタウルスの鬣だのが、欲しくていらっしゃいますの?」
穏やかな口調だった。
王女は束の間ムジカ嬢を見つめ、次いで昇りゆく満月を見上げ──それから、スズランの小道に視線を落とした。
「さあ……」
呟いて、薄く微笑う。
「私がそれを本当に欲しいのかどうかなんて、誰も気にしてはいませんわ。あの方々が求めているのは、一国の王女に求婚するに相応しい課題だけですもの」
それなのに人は、王女が気紛れに求婚者たちを弄んでいると言う。やがて王妃の後を追って月の向こう側へ行くのではないかと、噂する──とりわけ、こんな明るい満月の夜には。
「王妃様は、ご病気で亡くなられたと伺いましたけれど?」
「八年前ですわ。六月の、ちょうど夏至の頃でした。当時のことは、あまりよく覚えていないのですけれど──おかしいでしょう? 私、もう十歳になっていたのに」
ふいにくだけた口調になって笑う王女に、ムジカ嬢も微笑んだ。
「悲しい記憶に封をしていらっしゃるのでしょう。楽しい思い出が曇らぬように」
「お上手ね」
少しだけ、王女の笑みから自嘲の色が消えた。
銀を宿して潤む青い瞳に、けぶるようなプラチナ色の髪。花を愛し、月を愛し、ヘーゼル王に愛された、美しい西方の姫──ムンリット王妃。
「月光?」
王女は頷いた。
「噂の半分は、その名前のせいですわ。でも本当に月がお好きで……供も連れずにふらりと散歩に出かけてしまうので、月の綺麗な夜には特に厳重に戸締りをして見張りも立てておくのに、気がつくとお部屋は空っぽで、真夜中過ぎにお庭から戻られたりして──翌朝、バジル夫人が怒ることといったら」
宝石よりも花が好きで、季節の花や実を束ねたブローチを飾り、宝冠ではなく花冠をかぶっていた。庭にいると、まるで王妃が花そのものであるかのように、小鳥や蝶がその手や肩で寛いだ。いつもその瞳に夢見るような楽しげな微笑を宿した、少女のような人だった。
「そして、亡くなった時期が時期でしょう? だから、実際には病死などではなくて、夏至前夜に月の向こう側へ行ってしまったのだろうって──皆、言っていますわ」
夏至の前夜には、俗界と異界との境界が曖昧になる。この日に月の向こう側へ行ってしまった者は、決して俗界に戻ってくることがないという。
「そして王女様は、それを望んでいらっしゃいますの?」
花を愛し、月を愛し、そして月の向こう側へ行ってしまった王妃──
人は噂する。ありもしないものを要求して求婚者たちを翻弄する変わり者の王女は、やがて母の後を追って、自ら月の向こう側へと旅立ってしまうだろう、と──
「──エニシダの小道の話は、お聞きになりまして?」
ムジカ嬢の問いには答えずに、王女は言った。返事を待たずに、言葉を続ける。
「この丘を西側へ下っていくと、フェイ川の流れにぶつかります。そしてフェイ川を渡った向こう側には、西の山裾まで続く銀の森が広がっています」
針葉樹が茂る銀の森の中は、昼間でも冬の夕暮れのように薄暗い。密生した木々はどれもまるで植林されたように同じ表情をしていて、入り込んだ者の方向感覚をたやすく奪い取ってしまう。そのために日没後はもちろんのこと、昼間でも人が避けて通るにも関わらず、毎年、何人かの行方不明者を出すこの森を、魔の森と呼ぶ者さえいる。
「この鈴ヶ丘を、エニシダの小道を通って下っていくと──なぜか、フェイ川を渡ることなく銀の森に辿り着くそうです。そして、そうやって辿り着いた銀の森は、異界と繋がっているのだとか……」
いつしか、王女とムジカ嬢は、ゆるやかな鈴ヶ丘の頂に立っていた。
どこかで、サンザシの花が香っている。平地では五月祭の頃に満開だったが、丘のこの辺りでは、少し遅れた今頃に咲いているのだろう。空では五月の満月が、いつにも増して輝いている。
こんな夜には銀の森で、鬼市が開かれていることだろう。
もしもエニシダの小道を下っていって、運悪くこの市場に迷い込んでしまったら、どんな呼び掛けにも応えず、そこにあるどんな食べ物も飲み物も決して口にせず、できるだけ早く通り抜けることだ。そうすれば市場を抜けたところに再び、鈴ヶ丘へ続く道が現れる。
もしも鬼たちの呼び声に一言でも応えたり、果物のひとかけらでも口に入れたりしてしまったら──二度と再び、異界から戻ってくることはできない。
「リンゴにマルメロ、ブラックベリー──」
鬼の売り口上を小さく口ずさみながら、王女は丘の頂をぶらぶらと歩く。
一帯に群生する茨の棘を避けて、ムジカ嬢は小さく開けた叉路で佇んでいる。
「レモンにオレンジ、ナツメヤシ──」
「無駄遣いをすると、バジル夫人に叱られますわよ」
「──おかしいでしょう?」
ムジカ嬢の言葉には応えずに、王女は言った。
「エニシダなんてどこにでもあるのに、ここには一本も見当たらないなんて」
茨もサンザシもツツジもあるのに、この丘にはエニシダがない。あの黄色い花が咲かない丘など、あるだろうか。
しかしムジカ嬢は、静かに首を振った。
「もしもあったとしても、王女様には見つけられませんわ」
夜闇に沈んだ丘の斜面を見回していた王女は、ゆっくりと振り返って、ムジカ嬢を見つめた。
「……見つけられない?」
わずかに首を傾げる王女に、ムジカ嬢は頷いてみせた。
「ええ。王女様は、護符をお持ちですから」
何度か目を瞬き、それから王女は両腕を広げて自分の体を見下ろした。
「……ぜんぶ外してきましたわ」
「王女様は、決して外すことのできない護符をお持ちです」
首を傾げる王女の様子に、ムジカ嬢は、アーモンドの瞳を細めて微笑んだ。
「五月祭の子供たちをお忘れですか? ヒナギクは、太陽の花です」
驚いたように、王女は顔を上げた。
「……太陽の、花?」
「もしもどうにかして森に辿り着いたとしても、鬼たちは決して、王女様を市場の中には入れてくれないでしょう。満月の光を一晩中浴びたとしても、月の向こう側へも、行けそうもありませんわね」
青い目が、呆然と見開かれる。
「私には、行けない……」
「ええ──デジー王女様には、決して」
尚しばらく瞬きもせずにムジカ嬢を見つめ、やがて王女は、表情を崩して小さく笑った。
「意地悪なお母様」
その表情には、安堵と失望の色が少しずつ混じっていた。