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妖精国奇譚  作者: ほたる
第一話 溺れる花
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パレードと水族館

 五月祭から一夜明けた、五月二日の昼過ぎ。

 待ち合わせた公園に王が着くと、ムジカ嬢は木陰のベンチで本を読んでいた。赤と白の格子縞のドレスの肩に緑色のケープを羽織って、膝に本など乗せていると、まるで女学生のように見える。今日は髪を結い上げずに下ろしているせいかもしれない。

 広い公園内にある動物園の脇を抜けて、王とムジカ嬢は水族館へと向かった。


「五月祭は、ご覧になりましたか?」


 動物園を囲む高い生垣に沿って小道を歩いていきながら、王が訊ねると、ムジカ嬢はにっこり笑って頷いた。


「前日に夜更かしをして寝過ごしてしまいましたけれど、午後からエルダーを連れて出かけてまいりました」


 エルダーというのは、ムジカ嬢がフェイフォードにいる間の従者として使っている、口のきけない少年だ。

 一昨日もムジカ嬢に付いて王宮へ来ていたのだが、五月祭用のヒナギクの花冠をかぶせようとしたら嫌がって逃げ出したと言って、バジル夫人が怒っていた。今日は王が一緒なので、連れてこなかったのだろう。


「市民の楽隊に混じって、鼓笛隊の制服姿の方がお一人、楽しそうに歌ってらっしゃいましたわ」


 それはきっとウィロウ副長だろう。城下でも人気者らしいから、パレードの後に、そのまま引っ張っていかれたのかもしれない。

 一部では、彼が鼓笛隊の隊長にならないことについて不満もあるらしいが、こればかりは、王にもどうしようもないことだった。


 ウィロウは、誰もが認めるフェイフォードいちのラッパ吹きだ。入隊試験での彼の実技は、当時の鼓笛隊の主席ラッパ奏者でも、文句の付けようがなかった。

 しかし彼の合否について、試験官たちの意見は二つに割れた。実技と併せて行われた筆記試験の答案用紙を、彼はほとんど白紙で提出していたのだ。

 貧しい羊飼いの家の長男で、音楽学校どころか小学校すらろくに通ったことがなかったウィロウはもちろん、楽典の知識など何も持ってはいなかった。それどころか彼はその時、ほとんど文字も読めなかったのだ。


 どんな難解な譜面も、ウィロウは一度さらえば覚えてしまう。一度聞いた歌や曲は忘れないし、即興で掛け合いや伴奏をすることもできる。去年、王女の誕生日のために彼が作った曲は、フェイフォードの音楽史に残すべき素晴らしいものだった。

 それなのにいまだに彼は、一番簡単な賛美歌の歌詞でさえ、綴りを間違わずに書き取ることができない。

 音楽的な才能は図抜けて素晴らしい。同僚ばかりでなく城下の市民たちからも慕われる、誰もが認める好青年だ。責任感も強く、信頼に足る人物である。

 しかしやはり、五回に三回は「フェイフォード王立鼓笛隊副長」の綴りを間違えてしまう人物を、議会参加資格まで持つ鼓笛隊隊長の地位に据えるわけにはいかないのだ。

 せめて、王女の誕生祝いの曲を称えて彼にナイトの称号を贈るのが、王にできる精一杯だった。もっとも、ウィロウがその称号の意味を正しく理解しているかは、はなはだ疑問だったが。




 生垣が途切れて蔓バラのアーチが現れると、そこが王立水族館の入り口だ。絡み合ったピンクのバラが、ちょうど開きかけで美しい。

 棘の嫌いなムジカ嬢は、一瞬顔をしかめて足を止めたが、手入れが行き届いていて蔓が体に触れる心配がないと分かると、すぐに機嫌を直してアーチをくぐった。


「良い香りのバラですわね」

「館長に言うと喜びますよ」


 この入り口のアーチを含めて水族館周りの草木の世話は、全て館長が一人でやっている。彼の作る特製肥料の配合法をなんとか盗み出そうと、王室付庭師は毎春、思いつく限りの無駄な企てを試みる。


 チューリップとプリムラとスミレに彩られたアプローチを通り抜けると、蜂蜜色の石壁の水族館に辿り着く。

 精緻な青銅のレリーフが自慢の扉を開き、控えの間を抜けて最初の小部屋は、熱帯魚の展示室だ。主に南方から取り寄せられた色鮮やかな魚たちで、王にはよく分からないが、どれも非常に珍しいものらしい。


 元はこの部屋にも金魚が置かれていたのだが、さる男爵夫人が、叔父の遺産だというこれらの魚たちを水槽ごと寄贈してくれたので、設備を整えて熱帯魚専用の部屋とした。

 壁に沿ってぐるりと並ぶ水槽の中を、極彩色の魚たちが泳ぐ様は、幻想的で美しい。管理に手間がかかると言って、館長は時々ぼやいているが。

 かの男爵夫人も、相続はしたものの処分に困ったあげくに、寄贈という名目で押し付けてきたようなふうではあった。

 本来ならば敬意を表して、部屋には寄贈者の名前を付ける慣わしなのだが、夫人が頑なにそれを固辞したので、これら一群の熱帯魚は、単に「男爵夫人(バロニス)コレクション」と呼ばれている。

 経緯はどうあれ、来館者を出迎えるには相応しい部屋だ。


 色鮮やかな水槽の間を通り過ぎ、二百年前の手書きタイルで飾られた奥の扉を開くと、両側に水槽が並ぶ細長い部屋に入る。

 この水族館は、百五十年程前に建てられた王妃の離宮を、先々代の王がここに移築したもので、外観も内装もほぼ当時のままに保存されている。元はホールだったこの部屋の壁には、当時流行した東方風の花刺繍を施した絹が貼られ、擬古趣味のアーチ天井には漆喰のレリーフで組紐模様が描かれている。

 床を市松模様に彩るのは、セス島から取り寄せた白とピンクの大理石。柱の蔦模様は、去年金箔を張り替えたばかりだ。

 どちらかといえば可愛らしい印象のこの部屋に、優美な金魚はよく似合っていた。


 二人が背後で扉を閉めたとき、部屋の反対側のモザイク模様の扉が開いて、ノマタ館長が姿を見せた。


「やあ、陛下。──ようこそ、王立水族館へ」


 王に軽く会釈してから、ムジカ嬢に向かって一礼する。

 母方の遠縁という間柄で、幼い頃から付き合いがあるので、ノマタ館長のヘーゼル王に対する態度は少し気安い。


 ムジカ嬢も作法通りに膝を曲げて返礼したところで、王は二人を紹介した。


「こちらは、民俗学者のムジカ嬢。──ムジカ嬢、こちらがノマタ館長です」

「お目にかかれて光栄です」


 館長が微笑んで手を差し出すと、ムジカ嬢も笑みを返してその手を取った。


「こちらこそ。美しいものを育てるのが、お上手でいらっしゃいますのね──魚も、花も」


 微笑むアーモンドの瞳と、涼やかな声音。途端、館長は嬉しそうに破顔した。




 この水族館には、現在世にあるほとんど全ての金魚の品種が集められている。

 多くは品種ごとに分けられているが、中には、様々な品種のうちの白いものだけ、金色のものだけを集めた水槽なども並んでいる。水草や底に敷く石の種類も様々で、二つとして同じ印象の水槽はない。


「──黒い金魚は不吉だと言う方もいらっしゃいますが、この深みのある独特の黒色は、愛好家の間では黒真珠に(たと)えられて珍重されております。かの叙情詩人ワースは、大粒の白真珠を敷き詰めた水槽で、これを愛でたとか……」


 端から順に説明していく館長の隣で、ムジカ嬢は熱心に耳を傾けている。時おり、金魚の生態や飼育方法などについて質問する様子は、いかにも学者らしい。

 久しぶりに解説しがいのある観客を相手にして、館長も心なしか嬉しそうだ。水質浄化薬剤に関する冗談で笑った上に、ガラス製造にまつわる冗談を返してくれる若い婦人は、そうそういるものではない。


 もう何度も聞いたことのあるノマタ館長の解説を半ば聞き流しながら、王は二人から一歩離れて、水槽を眺めていた。


 金魚は、フェイフォードが誇る特産品の一つだ。繁殖所には定期的に視察を行っているし、この水族館も子供の頃から通っている。時おり模様替えなどもするが、それでも王にとって、これら居並ぶ水槽の中の金魚は、庭のバラのように見慣れたものだ。

 だが今日に限っては、いつもと変らないはずの魚たちが、まるで鏡越しに見ているかのように、どことなく違って見える。あの尾ビレの大きな白と金のまだらの金魚の群れが、さっきからしきりと王の方を盗み見ているのは、本当に気のせいだろうか……

 奇妙に鮮やかな珊瑚色の斑のある金魚を見れば、思わずムジカ嬢の横顔を窺わずにはいられない。そういえば今日は夕べの夢と同じように、髪を結い上げずに下ろしている。


 両手を後ろで組んで、水槽の中を優雅に舞う金魚を覗き込みながら、王はぽつりと呟いた。


「これらは、元は何の花だったのでしょうな」

「は……?」


 戸惑ったような声に振り向くと、ノマタ館長が怪訝そうに首を傾げていた。

 その傍らで、ムジカ嬢も驚いた様子で目を見開いていたが──やがて、くすくすと笑い出した。


「お戯れですか、陛下?」


 いかにも可笑しそうに喉を震わせて笑う。とすると、やはり昨日の話は冗談だったのだろう。


 いっそう困惑の表情を見せる館長を苦笑いでごまかして、王は先へ進むよう身振りで促した。

 当惑しつつも、次の水槽へとムジカ嬢を案内する館長の背中にため息をついて、王は傍らの水槽台に軽く寄りかかった。


 この辺りの水槽には、特に大きくて珍しい金魚が集められている。フリルのような大きな尾が特徴の品種を入れた水槽は、その優美な尾の動きを上から鑑賞するために低い台に置かれている。

 ムジカ嬢が尾の大きな金魚が好きだと言ったせいだろう、ノマタ館長の解説にも力が入っているようだ。


 ふいに──視界の端に白いものが映った。

 振り返ると、傍らの水槽の水面に、白い花が浮いていた。黄色い花芯の、大きな白いシャクヤクだ。

 確かに館長は中庭にシャクヤクを植えていたが、この部屋には花は飾っていない。金魚だけで十分なのだと、以前に言っていた。それがいったいどういう経路で、この水槽に落ちてきたのだろう……


 見つめていると、水面で揺れていたシャクヤクが、ふいに(かし)いで水に沈んだ。


「あ……」


 思わず、水槽に向かって手を伸ばす──と、指先がガラスに触れる間際で、腕に白い手が掛かって引きとめられた。

 驚いた王が振り返るより早く、耳元で涼やかな声が囁いた。


「心配なさらなくとも、シャクヤクは溺れたりしませんわ」


 慌てて振り返ると、微笑を浮かべたムジカ嬢はもう王の傍らから離れていて、館長と共に次の水槽へ移っていくところだった。


 ため息をつきつつ、王は水槽に目を戻したが、水草の陰に隠れてしまったのか、シャクヤクの花はどこにも見えなかった。

 軽く首を振って王が水槽から離れようとしたとき──揺れる水草の間から、白地に金の斑のある大きな金魚がするりと泳ぎ出て、王の目の前で、くるりと優雅に宙返りをした。


第一話『溺れる花』完。

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