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妖精国奇譚  作者: ほたる
第一話 溺れる花
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花と珊瑚

 その夜、ヘーゼル王は夢を見た。



 そこは、とても澄んだ涼しい水の中だった。

 光を映してゆらゆら揺れる水面を、王は下から眺めている。

 時おり、ぽつりぽつりと波紋が広がっては消えてゆく。


 と、波紋の中心からするりと、何か白いものが落ちてきた。

 目を凝らすと、小さな花だ。ゆっくりと回りながら降りてくる、その雫のような形をした花弁には見覚えがあるのだが、名前が出てこない──と思っていると、また別の花が落ちてきた。鮮やかな黄色い花弁は見間違いようもない。福寿草だ。

 それでようやく、最初の白い花の名前を思い出した。待雪草(スノードロップ)だ。

 散歩の途中で雪の間にこの可憐な花を見つけると、亡き王妃は決まって歓声をあげたものだった。


 くるくると回りながら踊るように降りてきた待雪草の群れが、王の傍らを通り過ぎていく。

 と、王の鼻先で、一つの花がむずがるように花びらを震わせた。

 まるで息を吹きかけられでもしたように、その場でくるりと宙返りをする。何かに煽られたようにもう一度宙返りをしたかと思うと──白い花びらが、ついと、水を掻いた。

 王の鼻先で、小さな細身の白い金魚が、透き通った尾ビレをひらめかせて身を翻していた。真珠のように白い体の、胸ビレだけが緑色をしている。

 金魚は、からかうように王の前で二度ほど宙返りをしてみせてから、長い尾をなびかせて水中深くへと泳ぎ去った。


 福寿草は、その花そのものの、丸くて黄金(きん)色の金魚だった。動きが少し、忙しない。舞い降りてきた小さな雪割草は、やはり小さな白い群れになった。胸ビレにぽつんと、黄色い斑点がある。


 ふいに鮮やかな色が目について、見上げると、紅色のバラが波紋を広げて落ちてきたところだった。続けて二つ三つと、落ちてくる。

 まだ開ききらない蕾はピンク色で、開くにつれ花びらの縁から濃い紅色が広がっていく、珍しい品種だ。王室付庭師はこのバラを温室で育てて、毎年まだ雪深い二月に咲かせる。色変わりするこの美しいバラが居間に飾られると、王は、春はもうすぐそこだと思うのだ。

 中心にほんのりとピンク色を残して真っ赤に染まった満開の花が、王の方へゆらゆらと降りてきた。

 白いバラの方が好きだった王妃も、春の花々に先駆けて咲くこのバラは気に入っていたようだった。香りが弱くて砂糖漬けには向かないとかで、バジル夫人の評価は今ひとつだが。


 王の頭上少しのところで、赤い花弁が揺れた。真紅の尾ビレがふわりと翻る。

 口の周りは淡く、全身は濃い紅色の、大きな金魚だった。長く大きな尾の動きはゆったりと優雅で、まるで高貴な蝶のようだ。

 真紅の金魚が目の前でくるりと一周して、するりと泳ぎ去る。見回すとすぐ近くでも、一つの花がヒレを広げようとしていた。


 何をしようとしたわけでもなく、思わず王は手を伸ばした。

 しかしむずがる花に指が届く前に、何かが王の腕を引いて止めた。驚いて見ると、肘に細い指がかかっている。

 振り返ると、いつの間に、ムジカ嬢が傍らにいた。


「いけませんよ」


 水の中で、その声はいっそう涼やかだった。


「途中で触れると、死んでしまいます」


 生真面目な瞳で見つめられて、王は慌てて、伸ばしかけていた腕を下ろした。その間に、バラは尾ビレを翻して泳ぎ去っていた。


「人の体温は、人が思う以上に、水に棲むものにとっては熱いものなんですよ?」


 声はとても耳に心地いいが、その口調には明らかに王を咎める響きがある。

 王がおとなしく両手を背後(うしろ)で組んでみせると、満足したのか、ようやくムジカ嬢は笑みを見せた。

 王はふと、子供の頃に城の厨房を覗きに行くと、決まって怖い料理長から、手を後ろで組んでいなさいと叱られたことを思い出した。彼の目を盗んで、焼きたてのミートパイやアーモンドプディングをくすねるのは、至難の技だった。手首の返しと目線の動きに、コツがあるのだ。



 王とムジカ嬢は少し離れて並んで、水面を見上げていた。

 今日は軽く留めただけのムジカ嬢の黒髪が、水中でふわりとなびいて小さな顔を縁取っている。

 金髪のデジー王女はこのムジカ嬢の艶やかな黒髪に、少しばかり憧れているようだ。そのうち、生きた黒髪などを求婚者に要求しないといいのだが……


 舞い降りてきたピンクと白のプリムラが、先を争うように花びらを震わせて、尾ビレの丸い小さな金魚になって泳ぎ出した。

 クロッカスは黄色と紫で、すらりとして尾が長い。向こうのほうで、はらはらと落ちてきては、小さな薄紅色の金魚になって群れているのは、どうやら桜のようだ。そろそろラッパスイセンが咲く頃だろうか。

 見ていると、水面から沈んですぐに金魚になるせっかちなものもあれば、流れにもまれながらも、なかなか変わらないものもある。


「泳げない花はどうするのかね?」


 ふと疑問に思って、王が訊ねると、ムジカ嬢は振り返って微笑んだ。


「花のままでいるだけですわ」


 そう言いながらもムジカ嬢は、いつまでも泳ぎ出そうとしない花を見つけると、小さくため息をついて手を伸ばした。

 すり抜けていこうとする花をつまみ上げて、急かすように花びらに口づける。驚いたように身を震わせて、慌てて泳ぎ出すその金魚の尾ビレには、ムジカ嬢の唇と同じ、珊瑚色の斑があった。


 ポピーの少し縮れた尾ビレは、うっとりするほど優美だった。

 スモモの白。リンゴの薄紅色。マルメロのもう少し濃い薄紅色。

 白いモクレンの、ことのほか大きく美しい金魚が泳ぎ去ると、追いかけるように紅紫色のモクレンが降りてきた。

 色とりどりのツツジは、数が多すぎて幾つかムジカ嬢も見逃した。

 スズランは思った通り、小さくて可愛らしい。

 アイリスに混じって、早くも路地咲きのバラが現れ始めた。

 バラは金魚になっても、どことなく得意げだ。ひとしきりウロコの輝きやヒレの優美な動きを見せびらかしてからでないと、泳ぎ去ろうとしない。


 ちらりと見ると、どことなく、ムジカ嬢は落ち着きがなかった。

 きょろきょろと辺りを見回している──何か探しているのだろうか。


 と、ふいに視界の端に、真っ白いものが映った。

 横目に見ると王の斜め上あたりから、小さな白い花が落ちてくる。ふっくらとした花びらは、どこか鳥の羽に似ている。七枚花弁の、真っ白い──


 とっさに手を伸ばして、王はその花をつかまえた。それから素早く手首を返して腕を下ろし、背後で手を組んで、あらぬ方向を見上げる。

 ちょうど鮮やかな緋色のアマリリスが降りてきたので、それに目を留めて微笑んだ。

 大きくて華やかな金魚だ。蒐集家が涎を垂らしそうな。


 ムジカ嬢は一瞬、不審げに王の方を見たが、どうやら気づかなかったようで、また初夏の金魚たちに目を戻した。ライラックが芳香を放ちながら降りてくる。


 内心でほっとため息をついて、王はそちらを見下ろさないようにしながら、そっと、手の中から花を逃がしてやった。

 純白のクロッカスはくるくると舞いながら、暗い水底へと消えていった。


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