金魚鉢とハッカ飴
そのとき、ふいにノックの音がして、前日祭を見に行っていたはずのローズマリーが入ってきた。すぐにムジカ嬢に気づいて、軽く膝を曲げる。
「ごきげんよう、レディ・ムジカ」
たいがい午後のお茶を運んでくるので、ローズマリーは侍女たちの中では一番、ムジカ嬢と仲がいいようだ。
「ごきげんよう、ミス・ローズマリー」
それでも、どこか慇懃でよそよそしい挨拶を交わす程度には、打ち解けていない。
概してフェイフォードの人間は、他国者に対して寛大だ。なのに、ムジカ嬢に対する侍女たちの評価があまり芳しくないのは、やはりムジカ嬢が「妖精探し」を明言しているせいなのだろう。
女官長のバジル夫人などは、いまだにムジカ嬢を、正式な客人とは認めていない節がある。そもそも、単身鉄道に乗ってやって来た時点で、バジル夫人にとってムジカ嬢は、立派な婦人とは言いがたい人物なのだ。「一人前の婦人が、供も連れずに出歩くなんて」──と、そういうことらしい。
ムジカ嬢がそんな夫人の態度を、気に留めている様子はないが。
ローズマリーは手に、丸いガラスの鉢を抱えていた。
王がそれに目を止めたことに気づくと、ローズマリーは微笑んだ。
「金魚ですわ。五匹もすくえましたので、二匹をこちらに」
言われてよく見れば、水と水草を入れた丸い鉢の中に、小さな赤いものが動いて見える。祭の露店を冷やかしてきたのだろう。いつもは飾りけのない髪にも、今日はヒナギクの花を挿している。そういえば小姓のマジョラムも、今日は朝からバジル夫人の手で、頭に花冠をかぶせられていた。
どこに置いたらいいかとローズマリーが目で問うので、王は立ち上がって、カナリヤの横に置かれた小卓の上の天使像を、壁際のチェストの上へと移した。
「あとで、マジョラムに何か礼をしよう」
まさかローズマリー自身が露店で金魚すくいに興じたとは思えないから、供をしたマジョラムの手柄だろうと思って王がそう言うと、小卓の上で金魚鉢の角度を調節しながら、ローズマリーは首を振った。
「すくったのは、ウィロウ副長ですわ」
真っ白いエプロンの端でガラス鉢の表面を軽く拭うと満足したのか、ローズマリーはようやく振り返って、王を見上げて微笑んだ。
「マジョラムが一匹しかすくえずに悔しがっているところに、偶然いらっしゃって。あっという間に四匹もすくって、そのままくださいましたの。とてもお上手でしたわ」
ウィロウ副長は、ろくに学校にも通わずに、そのラッパの腕だけで今の地位にまで登りつめた、鼓笛隊の変わり種だ。根っから音楽好きな明るい青年で、仕事がない時にはしょっちゅう、城下の街角や盛り場に現れては、歌を歌ったりしているらしい。
「あと三匹はどうしたんだね?」
「一匹はそのままマジョラムに。二匹は、王女様のお部屋にお持ちしました」
そう言うと、ローズマリーは先刻のエリカよりもいくぶん丁寧な礼をして、立ち去った。
愛らしい丸い金魚鉢を、傍らに立ったまま王は見下ろした。
午後の柔らかい日差しを、紗のカーテン越しに受けてかすかにきらめく水の中、細身の金魚はどこか忙しない様子で、水草の隙間を行きつ戻りつ繰り返している。
バジル夫人に餌の手配を頼まなければ、と、赤い尾ビレの動きを見るともなしに見つめながら、王はぼんやりと考えた。
夫人は、金魚が好きだったろうか──勝手な模様替えに関して、あとで何か言われるかもしれない。そういえば、金魚鉢を置くためにと、つい脇へよけてしまったブロンズの天使像は、夫人のお気に入りでは……
「陛下?」
声に驚いて振り返ると、ムジカ嬢が不思議そうに首を傾げて、こちらを見つめていた。それで、ローズマリーが入ってきてから今までずっと、ムジカ嬢を放っておいたことに気がついて、王は慌ててテーブルへと戻った。
椅子に腰を下ろしながら、取り繕うように口を開く。
「ああ、その──金魚は、お好きですかな?」
我ながら、唐突な問いだった。案の定、ムジカ嬢が呆気に取られたように、見開いた目を何度か瞬く。が、すぐにその瞳に悪戯っぽい色が浮かぶのが見えて、王は慌てて付け加えた。
「味のことは別にして、ですが」
王の推測は当たったのだろう。ムジカ嬢はほんの少しつまらなそうに肩をすくめてみせてから、珊瑚色の唇に笑みを浮かべた。
「飼ったことはありませんけれど、見ているのは好きですわ。もっと大きな金色のものを、見たことがありますの。透き通った尾ビレの動きがそれは優雅で、まるで蝶のようでしたわ」
露店で売られるような金魚は安い小さなものだから、愛らしくはあるが、蝶のように優雅とは言いがたい。
「王立水族館においでになれば、もっと色々な種類のものがご覧になれますよ」
するとムジカ嬢は、小首を傾げて少し考えるような仕草をしてから、再びにこりと微笑んだ。
「陛下が案内をしてくださるなら」
涼やかな声。
王も微笑を返した。
「喜んで。──今日これからでは?」
今日ならば公務も暇があったのだが、ムジカ嬢はわずかに笑みを曇らせて首を振った。
「申し訳ありませんが、今日は、日没までには帰らなければなりませんので」
確かに魔女の宵に、日没後に外出するのは無謀な行為だ。しかし明日は、祝日のために水族館は休みになる。では明後日に、と王が提案すると、今度はムジカ嬢も頷いた。
濃緑色のコゼーを外し、金の縁取りのある薄緑のポットを取り上げて、王はムジカ嬢と自分のカップに、まだ温かいお茶を注ぎ分けた。
気がついてみれば、焼き菓子は減っているが、スミレとバラの砂糖漬けは手付かずのままだ。もしかしたらムジカ嬢は花の砂糖漬けは嫌いなのかもしれないと思い当たって、王は翡翠色のボンボン入れに手を伸ばした。
「いかがですか、お一つ……」
言いながら蓋を開けて、そのまま王は口をつぐんだ。
「あら」
覗き込んだムジカ嬢が、くすりと笑う。
エミールのボンボン入れの中に、チョコレートは一個しか入っていなかった。
思わず苦笑して、王はボンボン入れを少しムジカ嬢の方に押しやった。
「いかがですか?」
「ありがとうございます」
笑いながら、少し気取った仕草でガラス器の底のチョコレートをつまむ。それを口に放り込んでから、ムジカ嬢は思い出したように、可愛らしいハンドバッグを取り上げた。
金の留め金を外して、さして大きくもないバッグの中を探っていたかと思うと、何かを取り出して、ボンボン入れの横に置く。
「差し上げますわ」
両端をねじって留めた、綺麗な水色の包み紙。
「どうも……」
取り上げると、ほのかに覚えのある香り──触ってみると、固くて丸い。ハッカ飴のようだ。
手の中の飴と、注いだばかりのお茶のカップとを見比べて、王は結局、飴をカップの傍らに置いた。どう考えてもハッカ飴は、茶菓子にはなりそうもない。
代わりに王は、スミレの砂糖漬けに手を伸ばした。
焼き菓子は厨房の料理人が作ったものだが、花の砂糖漬けを作ったのはバジル夫人だ。手付かずのまま下げさせたりしたら、夫人のムジカ嬢に対する評価はますます下がってしまうだろう。
花の甘さをお茶で流し込んでふと気がつくと、そんな王の仕草をじっと、ムジカ嬢が見つめていた。
何か、と目で問うと、ムジカ嬢は薄く微笑んだ。
「元はどんな花だったのかと、思いましたの」
アーモンド形の瞳を見返して、王は何度か瞬きをした。それから、葉の形の小皿に盛られたスミレとバラの砂糖漬けに目を落とす。品種のことだろうか……
「いえ、金魚ですわ」
「金魚?」
「ええ。金魚」
言いながら逸らされたムジカ嬢の視線を追って、王も窓辺の金魚鉢を振り返った。
赤い、愛らしい金魚だ。
「──花、ですか?」
何かの比喩だろうか。
野生の金魚というものは世に存在しないのだと、以前に水族館の館長が教えてくれたことがある。金魚と呼ばれる魚は全て、人の手で創られたもので、だからこそ装飾的な美しさがあるのだ、と。
そういう意味では確かに、金魚は花に似ているかもしれないが……。
王の当惑に気づいたのだろうか。
ムジカ嬢は再び、金魚鉢から王へと、視線を戻した。
「水に落ちた花が、泳ぎを覚えて金魚になるお話──ご存知ありません?」
意外そうに瞬きしながら言う、その穏やかな口調に、からかう響きは見当たらない。
冗談か本気か測りかねて王が黙り込むと、束の間の後、ふいにムジカ嬢はくすりと笑った。細い指先を伸ばして、バラの砂糖漬けをつまむ。
「金魚になった花からでは、妖精もさぞ、生まれにくいことでしょうね」
淡いピンクの花びらを放り込んで、薄い唇がにこりと微笑む。
何か答えるべきだとは思ったが結局浮かばず、仕方なく肩をすくめて、王は包み紙から取り出したハッカ飴を、口に放り込んだ。