ヒナギクとセイレン
銀のワゴンを押して客間に入ってきた侍女の姿に、ヘーゼル王は首を傾げた。
「ローズマリーはどうしたんだね?」
「お祭を見に出かけております」
答えながら、エリカは手際よく、ワゴンの上の茶道具や菓子皿をテーブルの上に並べていく。
「王女と一緒に?」
金で縁取った薄緑色の平皿には小さな焼き菓子が積み上げられ、葉の形をした小皿にはスミレとバラの砂糖漬けが盛られている。
菓子皿と揃いの薄緑のカップにお茶を注ぎ分けながら、エリカは首を振った。
「王女様は、気分がすぐれないとおっしゃって。マジョラムをお供に連れて行きました」
揃いのポットに濃緑色のコゼーをかぶせ、菓子皿の位置を微調整してから、一歩下がってテーブルの出来映えを眺めて満足げに微笑むと、エリカは優雅に礼をして退室した。
「前日祭は、見に行かれましたか?」
目線で王が促すと、ムジカ嬢は頷いてカップに手を伸ばした。
「ええ、昼前に。時計塔広場のポールが、ことのほか見事でしたわ」
五月祭当日を明日に控えて、市中はどこも華やかに飾りつけられ、主だった広場には五月祭のシンボルとなる、花綱を飾ったポールが立てられている。広場に至る大路には屋台が並び、街角には大道芸人なども現れて、祭気分を盛り上げる。
シャムロックでは、公立私立全ての学校が休みになり、白い晴れ着に緑の帯を巻き、太陽を象徴するヒナギクの花冠をかぶった子供たちが町にあふれる。
明日はこの子供たちが、花の咲いたサンザシの枝を持って家々を訪れ、庭や畑をその枝で叩いて廻ることになっている。春の訪れを告げる大切な役目なのだが、たいがいの子供たちの関心は、行く先々でお礼にもらえるお菓子の方にあるようだ。
このフェイフォードを代表する春祭りに、今年は近隣の村や町ばかりでなく、国外からも鉄道に乗って見物客がやって来ているようで、例年にない賑わいだと、警備隊長がいささか疲れた様子で王に報告してきた。
「せっかくの祝日ですのに、心配なことですわね、王女様」
銀のサーバーで焼き菓子を一つつまみあげながら、ムジカ嬢は言った。
「いつものことですよ」
ひと口大に小さく作られた円い菓子は二種類あって、それぞれタンポポとリンゴの花で飾られている。生地にアーモンドが入っているらしい、香ばしい匂いがする。
王は肩をすくめた。
「気乗りがしないだけでしょう」
タンポポの菓子をつまんで、ムジカ嬢は微笑んだ。
「でも、城下は王女様の噂で持ちきりでしたわ。今度の方は、お若い公爵様だとか……」
苦笑を返して、王はサーバーに手を伸ばした。
このところ、ひっきりなしに一人娘のデジー王女への求婚者が現れるのも、やはり四月に鉄道が開通したことが一因なのだろう。どういう噂を聞きつけてか、王族貴族の子弟ばかりでなく、農夫や木こりなどまでやって来て、宮内大臣は連日、対応に苦慮している。
「今度の課題は、何ですの?」
言って、ムジカ嬢は指先で半分に割った菓子を口に放り込んだ。
「セイレンの竪琴です」
「それは難題ですわ」
リンゴの花の乗った菓子を手に取って、王はため息をついた。
求婚者たちは、身分を問わず王女への目通りを許される。そして身分を問わず、王女は彼らに向かって、結婚の条件として一つの課題を提示する。
誰であろうと、その課題を成し遂げた者と結婚すると王女は言うが、未だかつて、それに成功した求婚者は一人もいない。
結婚したくないのかと、訊ねたこともあるのだが、そんなことはないと王女は言う。そして同じ口で、求婚者たちに無理難題を言い渡し、結果的に全ての求婚を退けている。
我が娘ながら困ったものだが、おかしなことに、そんな王女への求婚者は一向に減る気配がない。
竜の牙だのケンタウルスの鬣だのが欲しいと言われて、噂通りの変わった姫だと呆れて、あるいは、愚弄するつもりかと怒って、立ち去ってしまうならまだしも、勇んで本当に探しに出かけてしまう若者も少なくないのだから、ますます分からない。
必ずやお持ちしよう、と、南からやって来た若い公爵も誓って、旅立っていった。いったいどこへ行けば、妖女の竪琴なんて代物が手に入るというのだろう。
「でも、グレッセ諸島の船乗りは今でも、セイレンの誘惑に備えて、耳をふさいだ見張りを舳先に置いておくそうですから。あながち、空想の産物というわけでもないかもしれませんわ」
あのハンサムな若公爵が、船乗りを海へと誘うセイレンの歌声に対抗すべく、耳に蝋を詰めて荒海へと漕ぎ出していく様を、王は思い浮かべようとしたが、うまくいかなかった。流行の衣装を隙なく着こなした公爵は、首を動かすたび、カットしたばかりのブロンドの乱れを気にしていた。
「妖女といえば──」
お茶をひと口飲んでから、思い出したようにムジカ嬢は言った。
「お城の屋根にも、今夜はナナカマドを飾っておきますの?」
ムジカ嬢にならってお茶をひと口飲んでから、王は頷いた。
今日は五月祭の前日で、今夜は魔女の宵だ。
「ええ、塔の上に何ヵ所か。胸壁からなら、ご覧になれますよ」
するとムジカ嬢は、微笑んで首を振った。
「確認させていただくには及びませんわ」
夜に属するものたちが年に一度の集会を開くこの夜、会場へと向かう魔女や魔物たちが途中で舞い降りてきたりしないよう、人々は家の屋根に魔よけのナナカマドの枝を置く。
例の若公爵の生国では、ナナカマドに加えて、折れた釘を屋根に撒いておくのだと言っていた。ナナカマドではなく、茨やアザミを屋根に敷き詰めておく土地もあるらしい。
「こちらの風習は、ずいぶん良心的ですわ。家を建てるときにはじめから、鉄の杭を屋根に植えておくところもありますのよ。──もちろん、防犯の意味もあるそうですけれど」
「恐ろしい光景でしょうな」
屋根に一面、尖った鉄杭が植えつけてある様を思い浮かべて、王が眉をひそめると、ムジカ嬢はくすりと笑った。
「トラバサミと、どちらが恐ろしいかしら」
「トラバサミ!?」
驚く王に、なんでもないことのように頷いてみせてから、ムジカ嬢は今度は、リンゴの花飾りのついた菓子をつまんだ。
「狩猟用のトラバサミですわ」
ご存知でしょう?と、ムジカ嬢は開いた片手の平に菓子を乗せて、獲物を捕らえるトラバサミの動きを真似てみせた。
「もしもそれで魔女を捕らえてしまったら、それはそれで、始末に困るでしょうに」
言いながら、菓子を二つに割り、一方を口に放ろうとして──ふいにムジカ嬢はにこりと笑った。
「鬼市にでも、売りに出すつもりかしら」
細められたアーモンドの瞳に、悪戯っぽい色がちらついている。
城下に住む見知った魔女が、足にトラバサミを食い付かせている様子を思い浮かべてみて、王は顔をしかめた。
「市場まで連れて行くのが、たいへんそうですな……」
とても、おとなしく引かれていくとは思えない。
王の言葉に一瞬目を見開いて、それからムジカ嬢は鈴を転がすように笑った。