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妖精国奇譚  作者: ほたる
第三話 フェイフォード
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ムジカ嬢

 鈴ヶ丘をフェイ川へと下っていくスミレの小道で、ヘーゼル王が振り返ると、簡素な紺のドレスを着たムジカ嬢が立っていた。

 満ちかけた月が東の空に白く浮かび、日没間近の太陽が、西の空を褪せた茜色に染めている。


「バジル夫人に見つかったら、叱られますわよ」


 王は思わず、苦笑した。


「それだけは避けたいですな」


 再び歩き出す王から、少し遅れてムジカ嬢もついてくる。

 城からずっと、あとを付けてきたのだろうか。それとも、丘のどこかで待ち伏せしていたのだろうか── 一瞬思ったが、訊ねるのはやめておいた。どちらでも、構わないことだ。


 いい匂いのするスミレの小道を下っていきながら、王もムジカ嬢も、どちらも口を開こうとはしなかった。

 やがてフェイ川の岸辺に辿り着く頃には、西の空は茜色から紫色へと移り変わり、東の空では、月がいっそう白々と輝きを増していた。


 丘の麓から岸辺にかけては、なだらかな草地になっていて、まるで玩具(おもちゃ)のラッパのような白と黄色のスイセンが、転々と並んで気紛れな小道を作っている。川の両岸には、川面にまで枝を広げる野リンゴの古木が何本も植わっていて、ちょうど満開の薄紅色の小花が、清々しい芳香を放っている。

 リンゴの根方から川岸一帯にかけて、スイセンやベルフラワーの間を縫うように、蕾をつけたクロッカスが群生している。蕾はどれも白いもので、他の色は一本も見当たらない。


「六月に花開くクロッカス……」


 王の傍らで、誰に聞かせるふうでもなく、ムジカ嬢が呟く。

 ふと、羽織ってきた薄手のコートのポケットに入れた王の手に、硬いものが触れた。取り出してみると、携帯用の小さなボンボン入れだった。


「アンティーク・ビーズですね」


 感心したようなムジカ嬢の声に、王は苦笑を返した。


「祖父の形見ですよ」


 四角い陶器の表面をビロードで覆い、精緻なビーズ刺繍で紋章を描いてある。たいそう美しいが、それほど高価なものではない。


「そうだ。マジョラムに会ったらやろうと思って……」


 持ち歩いていたのだが、開けてみると、中にはチョコレートは一つしか入っていなかった。

 苦笑しつつ、王はボンボン入れをムジカ嬢に差し出した。


「いかがですか?」

「いただきますわ」


 微笑んで、ムジカ嬢はチョコレートをつまんで口に放り込んだ。少し舐めてから、ちょっと首を傾げる。


「キャラメルが入ってますのね」

「お嫌いでしたか?」


 ムジカ嬢は肩をすくめた。


「嫌いってほどじゃ、ありませんわ」


 それから思い出したように、ムジカ嬢は可愛らしいハンドバッグを開けて中を探った。しかしあいにくと、こちらのハッカ飴は切れていた。




 西の空で紫色が薄れ、東の空で月の輝きが増していくにつれ、辺り一帯のクロッカスの蕾が、目に見えて膨らんでいく。心なしか、リンゴの花の香りも強くなってきたようだ。

 ちょっと辺りを見回して、王は、シロツメクサに囲まれて苔むしている倒木を見つけて、腰を下ろした。


 と、近くで、鋭く息を呑む音が聞こえた。

 王が振り返ると、少し離れたところで辺りを見回していたはずのムジカ嬢が、青ざめた顔で立ち尽くしていた。見開かれたアーモンドの瞳が、驚いたように王を見つめている。


「──キャラメルの中に、何をお入れになりました……?」


 涼やかな声が、少しだけ震えている。


「タイム夫人のことは、お話ししていましたかな?」


 怪訝そうに、ムジカ嬢は眉を寄せた。


「田舎で隠居暮らしをしていらっしゃる、王女様の乳母殿のことでしたら……」


 少しかすれた声に、王は微笑んだ。話しているなら、その説明はいらないということだ。


「ええ、そのタイム夫人です。彼女は、ジャム作りの名人として有名でしてね。恐らく、シャムロックでも五本の指に入る上手でしょうな」

「──ナナカマドのジャムなんて、聞いたこともありませんわ」


 声に悔しそうな響きが混じっているのは、気のせいだろうか。


「魔女の宵に屋根に置くような、よく見るナナカマドとは、ジャムにするものは少し品種が違うようですな──今朝方、ジャムと一緒に届いた夫人からの手紙に、そのようなことが書いてありました」


 ついでに、去年作ったうちの最後のビンだとか、皮肉めいた言葉も並んでいた。返礼は少し奮発した方が良さそうだ。


「ああ、そういえば……ヘザー小路のミス・ファーズは、確かこのジャムが嫌いでしたな。──あなたは、生粋の魔女というわけでは、ないようですが」


 青ざめた顔のまま、ムジカ嬢は薄い唇を歪めて微笑んだ。


「恋占いくらいは、してさしあげられましてよ」


 王も微笑を返した。


「遠慮申しあげよう。──少なくとも、あの月が沈むまでは」


 少なくともその頃までは、ムジカ嬢は満足に動くこともできないだろう。


 体を強張らせて立ち尽くすムジカ嬢に手を貸して、倒木に座らせると、王はその足下の地面に直接腰を下ろした。

 それから王は、そこいら中に生えているシロツメクサを摘んで、細い輪を二本編んだ。

 編み上げた輪の、一本を自分でかぶり、もう一本を、身じろぎもせず座っているムジカ嬢の黒髪に乗せる。それから、倒木に背をもたせるようにして、腰を落ち着けた。


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