祝福のクルミ
五月祭の折、花綱を垂らして広場に立てたポールに、蔦を絡ませた緑の葉綱が垂らされると、フェイフォードの夏祭り、夏至祭の到来である。
夏至を境にその力を弱めていく太陽を惜しみ、かつ力づけるのための祭ではあるが、本格的な暑さが夏至の後にやって来るフェイフォードにおいては、夏の到来を告げる祭といった趣が強い。
五月祭では色とりどりの花で華やかに彩られた通りが、今度は木や草の艶やかな枝葉で瑞々しく飾られ、再び露店や大道芸人たちで賑わう。この時期に結婚する幸運な若夫婦は、シロツメクサの冠で祝福される。
そしてこの時期、フェイフォード国王は、金のクルミと格闘する。
夏至祭当日、ポールから垂らされた緑の葉綱に、金色に塗られたクルミが幾つも吊るされる。
これらのクルミのうちの幾つかには、中に半ブリー金貨が入っていて、これを手に入れた娘は幸福な結婚ができると言われている。このため、祭の後にポールから綱が外されるや、若い娘たちが群がってクルミの取り合いをする。
話だけ聞くと微笑ましい光景に思われるのだが、以前に王がそう言った時の衛門隊長の表情から察するに、実際は微笑んで眺めていられるような穏やかなものではないようだ。
去年、金貨入りのクルミを手に入れたと自慢していたエリカは、夏至祭の後しばらく、片腕を包帯で吊っていた。
この幸運のクルミに金貨を入れるのは、ポールを立てた者の役目とされている。地方では、領主や土地の有力者が祭を主催するので、彼らがクルミを用意する。
そして、ここ首都シャムロックでは、それは国王の役目となる。
都の中でも、ギルド会館前や大学前広場のものなど、私有のポールも幾つかある。それらを除いて、いったい幾つのポールが国王の名で立てられているのか──気が遠くなるので、ヘーゼル王は数えないことにしている。
王の私室に積み上げられたこの木箱の中には、いったい幾つのクルミが入っているのか──数えてみたところで、余分なクルミが見つかるわけでもない。王の役目は、他の仕事の合間にただ黙々と、金色に塗られたクルミの殻の中に半ブリー金貨を入れていくことだけだ。
単調で単純な作業も、度を過ぎれば苦痛と疲労を生じうるということを、この季節が来るたび、王は思い知らされる。今年は特に、デジー王女の婚約を祝して、例年より多くのクルミを吊るすことが、先の議会で承認された。
なぜウィロウは、もう少し待ってから求婚してくれなかったのだろう。
「それで、ようやくクルミから解放された、というわけですわね?」
笑みを含んだ涼やかな声に、王は苦笑いで応えた。
式部官に急かされながら──この作業を、国王は誰の手も借りずにやらねばならないのだ──王が最後のクルミに金貨を入れたのは、昨日の午後もなかばのことだった。
やり遂げた感慨に浸る間もなく、クルミは日暮れまでに葉綱に吊るすためにあっという間に式部官らによって運び去られ、あとには、剥がれた絵の具で両手を金色に染めたヘーゼル王だけが残された。
「ご覧いただけましたか?」
「王宮前広場のポールが、やはり一番立派ですわね」
なかばはお世辞かもしれなかったが、王は素直に喜ぶことにした。
「明晩の篝火も、なかなか見事ですよ」
夏至当日の明日、日暮れに葉綱が外された後、ポールには火がかけられ燃やされる。火柱が夜空を突いてそびえる、その光景は圧巻だ。
夏至の篝火には魔を払う力があるので、たとえ満月と重なっても、人々は夜更けまで篝火の周りで歌い、踊る。
ムジカ嬢は微笑んで頷いた。
「下宿のミュゼット夫人が、新しい松明を準備していましたわ」
真夜中を過ぎて月が傾くと、人々はめいめい、篝火の炎で松明を灯して家路に着く。この炎を竈に移せば、その家は一年間安泰に暮らせるという。
魔女の宵に屋根に魔よけのナナカマドを置かない変わり者として有名なミュゼット夫人でも、やはり竈の安全は気にかかると見える。
ヘザー小路の魔女、ミス・ファーズなどは、火の粉が飛んでこないようにと、夏至当日には家の屋根や壁に、水を掛けておくらしいが。
「図書館でも、水差しを用意していましたけれど?」
「あれは、火災への用心のためです」
数年前、大学前広場に集まった若者たちが、祭の後に酔って松明を振り回して、大学構内で小火騒ぎを起こした。
幸い大事には至らなかったが、それ以来、大学内にある王立図書館では夏至祭に備えて、随所に水差しや水瓶を用意しておくようになった。
「知識を守ることは、素晴らしいことですわ」
満足げに頷いて、ムジカ嬢は白磁のカップに唇をつけた。
濃紺の地に金でアザミの模様を描いた縁取りのあるこの茶道具は、バジル夫人のお気に入りだ。お茶は香り高いベルガモット。茶道具と揃いの皿に盛られた、干ブドウ入りのスコーンには、クリームまで添えてある。
近頃としては珍しく、今日はバジル夫人の機嫌がいいようだ。今朝方、タイム夫人から手紙が届いていたせいだろうか。
「図書館では、何か新しい収穫がありましたか?」
カップを口に運びながら、王は言った。
薄い唇を引いて、ムジカ嬢は微笑んだ。
「このところは、記号学について調べておりましたの」
「──といいますと、丸とか四角とか矢印とか……」
「三角とか螺旋とか──円、とか」
ちぎったスコーンにナイフで品良くクリームを盛り上げて、ムジカ嬢は珊瑚色の唇に放り込んだ。
「──円、ですか?」
「他の多くの記号は、地域や時代によって、その象徴する意味合いがずいぶん変わってしまうこともあるようですけれど。こと円に関しては、古今東西、その意味するところはたいがい、一貫しているようですわ」
「……ほう」
軽く頷いて、王はまた一口、お茶を飲んだ。
「記号学において、円の意味は『永遠』です」
言いながら、ムジカ嬢は自分のカップの縁を、指先でゆっくりとなぞっていった。
「こんなふうに……」
白い指がカップの縁をぐるりと一周して、再び取っ手のあたりで止まる。
「……円は、それ自体で完結するもの。すなわち、完全なるもの──たとえば、陛下もお持ちの王冠が円形なのは、国王の権威の完全さと永続性を表すためです」
「なるほど」
頷いて、王はクリームを塗ったスコーンのかけらを、口に放った。
「結婚の証に指輪を交換するのも、その誓いの永遠なることを、示すためですわ」
また少しスコーンをちぎってクリームを盛り上げ、口に放り込んでから、ムジカ嬢は珊瑚色の唇に再び微笑を浮かべた。
「逆に言えば、円を切断することは、永続性を否定することになります。たとえば王冠の。──たとえば、指輪の」
アーモンド形の瞳をまっすぐに見返して、王は薄く微笑んだ。
「──興味深いお話ですな」
暇を告げて立ち去る間際、戸口まで見送った王を振り返って、ムジカ嬢は言った。
「夏至前夜には、異界と現世との境界が曖昧になるそうですわ。くれぐれも、月の向こう側へ連れ去られぬよう──お気をつけくださいませ」
閉じた扉に向かってため息をついてから、王は立ったまま、カップに残ったベルガモットのお茶を飲み干した。




