月
ローズマリーが立ち去ると、ムジカ嬢は白い指を取っ手に絡めて、カップを口に運んだ。今日はミルクを入れたお茶に、蜂蜜入りの小さなケーキが添えてある。
「どうかなさいまして?」
いつまでもカップを取らない王を不思議に思ったのか、ムジカ嬢が小さく首を傾げる。
王はため息をついて、藍で細かな模様を描いた白磁のカップに手を伸ばした。
「夕べ遅くに、王女が戻ってまいりました」
カップを手に持ったまま王が言うと、ムジカ嬢はにこりと微笑んだ。
「それはようございました」
苦い微笑を返して、王もカップに口を付けた。
よりによって満月の夜に行方不明になったデジー王女が戻ってきたのは、真夜中もとうに過ぎた頃だった。
マジョラムが一緒ではなくて心配されたが、こちらは朝になって、鈴ヶ丘の麓のシロツメクサの原で眠っているところを、ウィロウ副長によって発見された。両手に四つ葉を握りしめていたおかげで、一晩中満月の光を浴びていた影響は出ていないようだ。
「大事がなくて、よろしゅうございましたね」
言いながら、銀のサーバーで蜂蜜のケーキを取るムジカ嬢は、心なしか、いつもより嬉しそうだ。蜂蜜が好きなのかもしれない。
「王女に、何かおっしゃいませんでしたか?」
王が言うと、ムジカ嬢は驚いたように目を見開いた。
「私が?」
「ええ」
頷いてみせると、ムジカ嬢は少し考えるような仕草をしてから、首を傾げた。
「何かありまして?」
王はまた一つ、ため息をついた。
若公爵の事故死の報せが届いたのは、ほんの昨日のことだというのに。今朝、また二人も、王女に求婚者がやって来たのだ。
「まあ」
「王女が、彼らに何を所望したと思われますか?」
苦い口調で言う王に、ムジカ嬢はいっそう不思議そうな表情をした。
「何をお求めになりましたの?」
「『月』です」
思わず、王は顔をしかめた。
「月をいただきとうございます」──無表情に告げられた王女の言葉に、王はその場で頭を抱えたくなった。色々な噂を聞いて心の準備をしてきたのだろう求婚者たちも、さすがに呆気に取られた様子だった。
一人は不可能だと怒り、もう一人は努力しますと苦笑いして、昼前には立ち去っていった。二人とも、もう二度と戻っては来ないだろう。
しかし困惑している王を見つめて、ムジカ嬢はくすりと笑った。
「よろしいじゃございませんか」
その言葉に、王はいっそう顔をしかめた。しかしムジカ嬢は気にしたふうもなく肩をすくめて、湯気のたつカップを持ち上げた。
「少なくとも月が相手ならば、命を落とす勇者様も、そうそうは現れませんでしょう?」
アーモンドの瞳が微笑う。
王は苦いため息をついて、蜂蜜のケーキを口に放り込んだ。
第二話『月へいく道』完




