鉄道とカナリヤ
この春に、東の山向こうとの間に鉄道が開通してからこっち、フェイフォードにも変わった客がやって来るようになった。
「たとえば、私のような?」
冷笑を含んだ鈴のような声に、ヘーゼル王は微笑んだ。
「あなたは、たぐい稀な客人、と申し上げるべきでしょうな」
「お上手ですこと」
言ってまた笑うムジカ嬢の声は、涼やかで耳に心地いい。以前に王が素直にそう評したら、子供の頃にカナリヤを飲み込んだのだと言って、ムジカ嬢は笑った。
「私、カナリヤには恨まれておりますの」
冗談か本気か分からないが、ムジカ嬢の前では、王の自慢のカナリヤはぱたりと嘴をつぐむ。
「カナリヤがお嫌いなのですか?」
王が訊ねると、ムジカ嬢は思案げに小首を傾げた──まるで小鳥のように。
「どちらかをとおっしゃるなら、カナリヤよりはオウムの方がお勧めですわ。味は大差ありませんけれど、少なくともオウムの方が、食べでがあります」
その言葉に、とっさに返答に窮して黙り込んだ王の瞳を覗きこんで、次の瞬間には、ムジカ嬢はくすくすと喉を震わせて笑いだした。細められたアーモンド形の瞳に、悪戯っぽい色が見える──なるほど、これは冗談のようだ。
「もちろん、オウムはお持ちでしょう?」
訊ねるというよりは断言されて、仕方なく王は頷いた。
「中庭の温室におりますが──もらいものですよ」
つい言い訳じみた口調で答えると、ムジカ嬢は薄い唇を引いてにっこりと笑った。
「オウムのいない温室なんて、宝石のない王冠ですわ。客間のカナリヤを入れるのはもちろん、シノアの鳥篭。カツェのテーブルには、ラテーナ刺繍のクロス──」
歌うように言いながら、真新しいテーブルクロスの刺繍模様をたどった細い指が、つと、テーブルの中ほどで止まる。白い爪の先には、ガラス製のボンボン入れがあった。
ムジカ嬢の形のいい左手の人差し指が、ボンボン入れの翡翠色の表面をゆっくりと撫でるのを、王は何の気なしに目で追った。
「──もちろん、エミールのランプも、お持ちでしょう?」
やわらかくからかうような口調の意味に気がついて、王は苦笑を返した。
「ええ。書斎に」
「そう、書斎に。当然ですわね」
白い指先が撫でる翡翠色のボンボン入れも、エミール工房の作品だった。ヘーゼル王の名で特別に注文して作らせたもので、注文から納品までに一年と五ヶ月が費やされた、王自慢の逸品である。
リアルなモチーフ使いで有名なエミールにしては珍しく、デザインは簡略化され図案化されて、一見しただけではたいがいの人が、これがエミールの作品とは気づかない。そしてやがてその正体を知ると、一様に、驚愕と羨望を隠しきれずに目を見張る。
時にはそこに、嫉妬が見え隠れすることもある。それはこの部屋に客を迎えた時の、王のささやかな愉しみだった。
驚いたことにムジカ嬢は、ひと目見て、これがエミールの品だと気がついた。
「今日び、客間にエミールを置かないお屋敷がありますかしら?」
驚く王に、そう言ってムジカ嬢は、からかうように笑ったものだった。
南国の花々を集めた温室。鮮やかな羽を翻す高貴なオウムたち。繊細なシノア銀細工の鳥篭と、澄んだ声で歌うカナリヤ。脚の曲線が美しいカツェのテーブル。ラテーナ刺繍を施した純白のテーブルクロス。そして書斎や客間を飾る、今を時めくエミール工房の食器やランプ──
およそ王族貴族の邸宅には欠かせない──そう、まるで王冠を飾る宝石のような──それらの品々に対して、しかしムジカ嬢はいささか批判的だった。
絵に描いたようなお城──当代一の伊達男として名を馳せる、モデーロ伯爵の別荘を訪ねた時の感想を、ムジカ嬢はそう一言で切り捨てたことがある。昨今の一流の宮殿にあるべきものは全て、あるべき形で揃っている、と。
「流行画家に理想の宮殿を描かせなさいませ。それが伯爵城ですわ」
至る所に付け足された紋章を除けば、何ひとつ意外なものはない、と、断言するムジカ嬢の口調はかなり辛辣だった。とりわけ、伯爵のエミール・コレクションときたら──「商品カタログになりますわ」
そんなムジカ嬢だったが、ヘーゼル王自慢のボンボン入れに関しては、いくらか寛大だった。
「エミールにしては、ずいぶんとデザインに品がありますわ」
「それはどうも」
デザインの指示をしたのは王自身だから、一応褒め言葉だろう。
「地に翡翠色をお選びになったのが、賢明ですわね。下手な草緑よりもよほど、この花弁の白色が引き立ちます」
実を言えばその色は、そのとき傍らにいた王妃のドレスの色だった。
新調したものらしかったので、綺麗な緑色だと褒めると、翡翠色と言うのですと、笑みを含んだ答えが返ってきた。袖口のレースと、ブローチ代わりに胸元に飾られたバラの白が、画才などない王の目にもとても美しく際立って見えたので、地色は翡翠色にしようと決めた。
丸い器の側面に少し抽象的に描かれたクロッカスは、フェイフォードを代表する花で、王家の紋章にも取り入れられている。器と同じ翡翠色の蓋は取っ手部分だけが白で、ほころびかけたクロッカスの花を象っている。
王はこの取っ手を金色の鳥の形にしようと考えていたのだが、エミールの方から是非にとの提案があって変更した。確かに仕上がってみれば、この花の形の取っ手はたいそう愛らしく、器部分とのバランスも素晴らしかった。
「まさしく、妖精が誕生するに相応しい花だと思われませんこと?」
アーモンドの瞳が笑みの形に細められて、王は苦笑した。
山向こうから列車に乗ってやって来たムジカ嬢の触れ込みは、民俗学者だった。曰く、「妖精を探しております」と。
ご期待には沿えそうもないと、再三の王の言葉を、しかしムジカ嬢はあまり信じてくれてはいない。
「メンデール博士の講義は、お気に召しませんでしたか?」
少し前までは天文学に執心していたが、このところのムジカ嬢の関心は、植物学に注がれている。王立大学に籍を置く植物学の権威、メンデール博士への紹介状を王が書いたのは、三日前のことだった。
「とても親切な方でしたわ。貴重な標本を幾つも見せてくださって。いかなる品種のクロッカスも、その花芯から小人を生じさせた記録はないと、断言してくださいました」
「そうでしょうな」
「でも記録には、七枚の花弁を持つクロッカスに関する記述は、ありませんでしたから」
王は小さくため息をついた。
「この次は、紋章学の教授をご紹介しましょう」
答えの代わりに、ムジカ嬢はにっこりと微笑んだ。
フェイフォード王家の紋章は、一輪の白いクロッカスを背景に、知を表す杖と武を表す剣とが交わるデザインになっている。
他の草花に先駆けて春を告げることから、豊穣の象徴とされるクロッカスの花弁が、実際の六枚ではなく七枚で描かれるのは、こうした紋章にはありがちな誇張に過ぎない。馬に翼が生えていたり、鷲の頭が双つだったり、ライオンが後足立って王冠をかぶっていたりするのと、同じことだ。いったい誰が、紋章のモチーフに写実性など求めるだろう。
しかし王のきわめて現実的な意見にも、ムジカ嬢は少しも動じなかった。
「それが他でもない、フェイフォードの紋章だからですわ」
そもそも、ムジカ嬢がはるばる山向こうからやって来たのは、そのためだった。
「なんと申しましても、ここは『妖精国』ですから」
「……弱りましたな」
ムジカ嬢が言っているのは、「フェイフォード」という国名そのもののことだ。
神話や英雄伝説に彩られた諸外国に比べると、フェイフォードの国名の由来はいたって単純なものだ。
今はもう地名くらいでしか使われない古い言葉で、「フォード」は「水辺の土地」を意味する。残る「フェイ」は王国内を流れる川の名前で、要するに「フェイフォード」は「フェイ川の岸辺の土地」と、その程度の意味の言葉である。フェイフォード王国に暮らす者ならば、子供でもそのことは知っている。
しかしこの説明に、ムジカ嬢は満足してはくれなかった。
粘土板に絵文字を刻みつけていた頃にまで遡る古い言葉で、いわゆる妖精のような不確かな存在を指して、「フェイ」と言うことがある。古今東西、国名に「妖精」と明記した国は、フェイフォードをおいて他にはない、と──それが、ムジカ嬢が山向こうからやって来た理由だった。
フェイフォード、すなわち「妖精国」と言われるからにはきっと、探し求める妖精の、何らかの形跡があるに違いない、と。
学者という肩書きに違わず、ムジカ嬢は研究熱心だった。連日、図書館や大学に通い、あるいは古老を訪ねて昔話を聞き込んだりしている。フェイフォードの人間にしてみれば他愛もない伝承や風習も、ムジカ嬢の弁にかかれば、立派な妖精譚になってしまう。
「フェイフォードでは六月にクロッカスが開く」という格言は、とりわけムジカ嬢のお気に入りだ。
それは、北の山岳地帯と南の平野部との気候の違いを端的に述べただけの言葉なのだが、ムジカ嬢はそれを言葉通りにとらえて、そこに独自の解釈を付け加えた。すなわち、六月に花開く七枚の花弁を持つクロッカスこそ、伝説の語る妖精の生まれる花なのではないか、と。
「我が国の自慢のクロッカスを、ご覧にはなりませんでしたか?」
紋章にも描かれるクロッカスは国の花として大切にされているから、時期には、それこそ国中いたるところで咲き乱れる。ちょうど鉄道が開通した頃には、ここ首都シャムロックでも、満開だったはずだ。
ムジカ嬢は、何度か瞬きして小首を傾げた。
「確かに、線路脇にも延々と──そう、駅舎の寄植えが見事でしたわね。黄色と紫と……」
言いかけた唇が、ふいに微笑んだ。
白い手が、再び翡翠色のボンボン入れに伸びる。
「おかしなことですわね、陛下」
細い指先が、浮彫りにされたフェイフォードの紋章を、そしてその周りに描かれた七枚花弁のクロッカスのモチーフを、ゆっくりとなぞっていく。
「確かに見事に咲き競っていましたけれど、白いものは一輪も見かけませんでしたわ──花弁の数に限らず」
「──確かに、おかしなことですな」
まっすぐに見つめるアーモンドの瞳を見返して、王は力なく微笑んだ。