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決戦 岐阜城の戦い~魔王を継ぎし者~

作者: タチバナ

 思えば、その男の人生は初めから波乱万丈であった。あるいはその誕生こそが波乱の幕開けだったのかもしれない。

 嫡男ではあるが、父である信忠は正室を持たなかったので側室の子として生まれた。

 そのため家督を継ぐかは定かではなかったが、何事もなければ天下を治める可能性もあった。

 だが、一夜にして天下の情勢は一変した。祖父・信長が本能寺にて家臣の明智光秀に討たれたのだ。

 そのうえ信忠も直属の家臣である前田玄以に短刀・末期行光を託して二条御所にて斃れた。

 その信忠の嫡男である彼は玄以らに保護されて、美濃の岐阜城から尾張の清洲城へと逃れることとなり、末期行光は父の形見となった。

 その後、清洲城にて行われた清洲会議によって織田家の家督を相続することとなり、彼は、――三法師は初めて歴史の表舞台に立つこととなった。


 なお、このとき信長の三男・信孝を擁立した柴田勝家と、三法師を擁立した羽柴秀吉が争ったとの逸話が『川角太閤記』に記されている。

 だが、実際のところは次男・信雄と三男・信孝が互いに自身が後継者であると主張したのち、双方合意の上で三法師が仮の名代となることで決着したのであった。

 しかしながら、当然のことだが、数え年で当時3歳であった彼に政治能力などあるはずもなく、翌年の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破った羽柴秀吉が実権を握ることになる。

 天正16年(1588年)、9歳になり元服して岐阜に戻り、織田秀信と改名する頃には既に彼の出る幕はなかった。


 とは言え、秀吉に対する恨みなどはない。物心をつく頃には既に天下は秀吉のものであったし、祖父や父の顔すら朧げな記憶の海へと沈んでいた。

 秀吉が織田家の家臣だったという記憶はほとんどなく、むしろ織田家が今も存続しているのは秀吉のおかげであり、秀信にとっては祖父や父の代わりとも言える存在であった。

 こうした秀吉寄りの思想は何も秀信のみが持っていたわけではない。その証拠に、小牧・長久手の戦いで徳川家康と連合を組んで秀吉と対抗した信雄ですら戦後は何食わぬ顔で豊臣家に出入りしているのである。

 関ヶ原の戦いにおいても東軍に属した織田家は織田長益(有楽斎)くらいなものであるし、長益は本能寺の変でもさっさと二条御所から逃げ出してしまった男である。

 彼にはもとより織田家に対する思い入れなどなかったのであろう。なお、信雄の嫡男・秀雄も東軍寄りの考えを持っていたが、父の意向に逆らうことはなく西軍に属している。


 岐阜城主だった豊臣秀勝が没すると、秀信は秀吉の計らいにより遺領と、文禄の役にて九番隊と呼ばれた部隊の指揮権を引き継ぎ、美濃国13万5000石の大名となった。

 翌年には羽柴姓も賜り、岐阜中納言と呼ばれるようになった。おそらくこの頃には従三位・中納言に昇叙・任官していたのであろう。

 無論秀吉にはかつては擁立した秀信を邪険にするわけにはいかないという事情があったが、織田家を保護してもらったのは紛れもない事実である。そのことに感謝はしても恨みなどあるはずもなかった。

 だが、その秀吉も慶長3年(1598年)に没する。秀信は形見として短刀・国吉を譲り受けており、これは岐阜国吉として後世に名が残っている。

 秀吉の死により秀信はその庇護を失ったが、一方でキリスト教弾圧の風潮が和らいだと見たのか、翌年には弟・秀則とともにキリスト教の洗礼を受けている。


 なお、秀吉は天正15年(1587年)にも伴天連追放令を発布しているが、その時点では九州での迫害に留まり、それ以外のキリスト教は事実上黙認されていた。

 秀吉がキリスト教に対して強硬的な態度を取るのは、文禄5年(1596年)のサン=フェリペ号事件が契機である。この際、石田三成はなるべく処刑される者を減らそうと苦心したが叶わなかった。


 ともあれ、秀信はペトロ、秀則はパウロという洗礼名を得て、文禄4年(1595年)に入信していたキリスト教を表立って保護することができるようになり、岐阜城下には教会と司祭館・養生所を建設した。

 イエズス会の宣教師であるルイス・フロイスは、秀信を「生まれもって位が高く、大きな期待がかけられる」、秀則を「素性を知らずに彼と少し話した場合、その品格によりドイツの貴族と判断してしまう」と評している。

 ポルトガルに生まれ、インドから日本に渡ったルイス・フロイスが何故ドイツの貴族を引き合いに出したのかは不明だが、秀信が祖父である信長と同様にキリスト教を手厚く保護したことは間違いないようだ。

 秀信はキリスト教に傾倒しながらも、かつて信長が保護していた楽市・楽座や鵜飼い、寺院なども引き続き保護しており、民衆も大規模な一揆や騒動は起こしていない。

 もしも織田家が何事もなく天下を取っていたならば、秀信は善政を敷き、泰平の世の礎を築いた名君として歴史に名を残していたであろう。


 一方で、五大老のひとりである家康は豊臣政権下において禁じられた大名同士の私婚を憚ることなく行うようになるなどして、五奉行のひとりである三成との対立を深めていく。

 これはあまり知られていない話だが、三成が徳川邸を襲撃しようとしているとの噂が流れたこともあり、秀信は前田邸に参集、つまり三成の味方としての動きを見せている。

 また、この事件とは全く別個の事件として、その後、福島正則、加藤清正ら七将によって石田三成が襲撃された。

 三成は家康の仲介によって一命は取り留めたものの、奉行職を引退して佐和山へ蟄居することとなった。

 この頃より秀信は稲葉山、町口の防備を固めるなどし、戦支度を進めていた。三成と家康との間で大戦おおいくさが起きることを予見していたのであろう。

 その先見の明は、彼には紛れもなく武将としての器量も備わっていたことを意味する。


「内府殿にお味方するべきである」


 内府殿、つまり家康から会津の上杉征伐に参加するように要請されたとき、百々綱家、木造具康(長政と同一人物か)らはこう進言した。

 綱家は初め浅井氏に属していたが、姉川の戦いのあとは信長に仕え、今日では高知城や江戸城の築城・修築に関わった築城の名手として知られている。

 一説には、岐阜市の百々ヶ峰に居城を構えており、安土城には百々橋という橋があったため、その築城に関わっていたとも言われる。

 具康は父である具政が信長、信雄に仕えたことから、一時は信雄の家臣として仕えていたが、いずれにせよ秀信の代では両名ともに織田家の支柱と呼べる重臣であった。


 だが、秀信はそんな重臣の進言を退け、軍装を整えるのに手間取っていると言い訳し、出陣を先延ばしにした。

 しかしながら、先述の通り慶長4年(1599年)から戦支度を進めていたのだから、これはあくまで口実と見るべきであろう。

 そんな折、三成から美濃・尾張の二ヶ国を宛がうとの勧誘があり、これを受けた。

 郡上八幡城の遠藤慶隆、今尾城の市橋長勝、松ノ木城の徳永寿昌などは東軍に属したものの、美濃の諸勢力のほとんどは秀信に倣って西軍に属することに決めた。


 なお、慶隆のいとこである遠藤胤直も初めは東軍に属したが寝返り、上ヶ根城に籠城し、秀信から激励状および鉄砲30挺と弾薬を送られている。

 秀信はこのように美濃の諸将に書状を送るなどして味方につけ、80歳を過ぎた老将の長沼三徳に至っては「死地を与えられたことは武人の本懐」と非常に喜び、実際岐阜城の戦いで秀信の家臣として討ち死にしている。


 こうして岐阜城と大垣城との防衛線にて、東軍の先鋒を食い止める戦略が成立したことは三成にとっても大きな意味を持った。

 一方で秀信にとっても所領の宛てがいが成立すれば少なくとも50万石を超える知行高になる上に、織田家の旧領復帰という喜ばしいことになる。

 しかし何より織田家を保護してくれた恩義がある三成から必要とされたことも嬉しかった。病気になった際、三成の頼みのおかげで真田信幸に湯治の世話をしてもらったこともある。

 それにひきかえ、家康なんぞは本能寺の変でも織田家を見捨てて、さっさと伊賀越えしてしまった不忠者ではないか。三成方につくことにはなんの迷いもなかった。


 ――それが今、迷っている。


 正則の居城・清洲城には東軍の先鋒部隊が押し寄せている。正則は既に美濃南部の福束城を始めとする西軍の城をいくつか攻略していた。

 それでも家康が江戸から動かなかったので「内府殿は我らを劫の立替(捨て石)になさるおつもりか」と訝しがっていたが、そこに家康の使者である村越直吉がやってきて「内府殿が動かぬのは、先鋒部隊が戦端を開かないからです」と告げた。


 付け加えるならば、家康は豊臣恩顧の武将の裏切りと会津の上杉景勝を警戒しており、江戸を留守にすることを躊躇していたという事情もある。

 だが、直吉が「先鋒部隊が向背を明らかにすれば、内府殿は必ず出馬なさる」と言ったので、先鋒部隊で軍事会議を開いて正則を主将とする大手勢と、池田照政(のちの輝政)を主将とする搦手勢に軍勢を分け、岐阜城に攻め入ることに決めた。

 要するに正則らはまず竹ヶ鼻城を落とし、照政らは木曽川を渡河してそのまま岐阜城に攻め入る作戦だが、いずれにせよ秀信は籠城するか野戦に打って出るか迫られていた。慶長5年(1600年)8月22日のことである。


「はたしてどうしたものか」

 岐阜城の櫓の前で秀信は虚空に呟いたが、それは決して独り言ではなかった。

「くっくっく、今更何を迷うことがあると言うのか」

 虚空は確かに応えた。秀信はこの世に生を受けしときより祖父である信長の姿が見えたのだ。

 しかし、秀信以外の誰もその姿を見ることは叶わぬようであったため、内々に秘め誰にもその存在を明かさぬようになった。

「おお、そこにおられたのですね」

 秀信は大袈裟に驚いてみせたが、岐阜城にて呼び掛けて信長が姿を現さぬことは今まで一度もなかった。

 そのため、まるでいつ如何なるときでも見守られているような気がしていた。おそらくは亡霊であろう信長は逆に秀信に問いかけた。


「籠城か野戦か、それを決めるために家臣たちが軍議を開いているのであろう?

 城主である貴様がこのようなところにいていいのか?」

「重臣たちは籠城を主張するばかりです。聞くまでもありません。

 少々腹の調子が悪いと言って席を外してきました。それよりも儂は祖父君に相談したいことがあるのです」

「ふむ。もし我が貴様の立場で、籠城するならば一ヶ月は持ち堪えてみせようぞ。

 だが、かの桶狭間のように敵の大将の首を狙って打って出ると言うなら、それも一手であろう。止めはせぬ。

 いずれにせよ如何にするかは貴様が決めるべきことである」


 信長は判断を秀信に委ねたが、岐阜城には水源がなく長期の籠城には向いていない。しかも照政は岐阜城の元・城主であり、地の利も知り尽くしていた。

 かと言って打って出るにしても兵力差があり過ぎる。籠城か野戦か、どちらが良いのかは一概には言えなかった。しかし、秀信はそんなことはどうでもいいと言うかのように応えた。

「分かっております。それよりも教えて欲しいことがあります。それは――」


 秀信が信長に何かを相談し始めた一方で、軍議の場では綱家、具康らがしきりに籠城を主張していた。対して野戦を主張するのは飯沼長実・長資父子であった。

 飯沼氏は初め池尻城主として名を興したが、秀吉に信孝への内通を疑われた長継が大垣城で処されると池尻城を没収され、その子・長実は前田利家に仕えた。

 しかし、長実は血気盛んな男で金沢で人を殺して出奔してしまったという。その後は秀吉に拝謁し許されたのか、秀信の下につくこととなった。

 長資もそんな父の血を継いだ熱き若武者であり、戦と聞いて滾らぬわけはなかった。

「我は岐阜四天王のひとりとして譲れぬものがある。そして我が父も籠城などはせぬ。

 もしも籠城などして負けたなら、後世まで恥を残すことになる。断固として打って出るべきだ!」


 長資は岐阜四天王のひとりと自称したが、他の3人が誰なのかは分からない。おそらくはまだ若く、なんの武功も立てていない彼による強弁であろう。

「何を馬鹿な」

 綱家が制止すると、具康も「打って出たところで勝ち目はない。むしろそれこそ無謀な戦だと後世の笑いものになるであろう」と続けた。

 秀則は兄の代わりとして軍議を取りまとめていたが、一向に結論の出る様子はない。いよいよ小田原評定かと思ったとき、ようやく兄が戻ってきた。


「兄上」

「殿」


 秀則と家臣たちは「ようやく戻られたのですか」と声をかけようしたが、すぐに目を瞠った。既に秀信は鎧を纏って、出陣の準備は万全であった。

 しかし目を瞠った理由はそれだけではない。威風堂々とした佇まいは、古くから織田家に仕える者にとってはまるで織田信長がこの世に蘇ったかのようにすら感じさせるものであった。

 信長の気配を纏った彼はすぐさま軍議の席について高らかに下知した。


「これより出陣致す。みなもすぐに戦の支度をせよ」

 その声には有無を言わさぬ気迫が込められていたが、重臣たちもそう簡単に飲み込まれるような器ではない。

 逡巡したのちに具康と、それにやや遅れて綱家は反論した。

「殿、それは無為無策、無謀というものでございます」

「敵はおそらく3万を超える大軍。こちらは治部殿(三成)から送られた千の援軍を加えても、6千しかおりませぬ」

「であるか」

 重臣たちの意見を聞いて、秀信はあえて祖父が口癖としたという言葉を口にし、こう続けた。

「しかし、敵は竹ヶ鼻城を攻めるために兵を二分するであろう。我らだけで3万の敵と対峙するわけではない」

「しかし、それでも1万数千の兵と戦わなければならぬのですぞ!?」

「籠城するならば寡兵でも持ち堪えられるかもしれませんが……」

「そうではない。何故ふたりとも分からぬ。先の福束城主・丸毛兼利は儂の家臣ではない故堪えたが、此度の竹ヶ鼻城・杉浦重勝は紛れもなく儂の家臣である。

 これに後詰するは主君として当然のこと。歴戦の勇士であるそなたらが戦の基本原理も分からぬか」


 重勝は信長、信雄と仕えたのち、文禄元年、秀信の家臣として竹ヶ鼻城に入城したと伝えられている。

 既に福島正則らに攻め落とされた丸毛兼利の福束城、高木盛兼の高須城、池田秀氏の駒野城、高木正家の津屋城とは事情が違う。

 主君が家臣の城を見捨てることなどあってはならぬのである。

「くっ……、しかしながら、だとしても大垣城、犬山城からの援軍を待つべきではございませんか」

「それを待っていては間に合わぬ。それに敵が目に余るほどの大軍であっても、一戦もせずして籠城したのでは竹ヶ鼻城の兵らを見殺しにすることになる」


 具康は最後まで反したが、秀信は断固として退けた。ここで秀則が仲裁するかのように割って入った。

「兄上の頑固さは祖父譲りのもの。一度言い出したなら何も耳に入るまい。

 これ以上意見するならば、今からでも清洲城へ向かい、徳川に与するが良い」

 今更主君を裏切ることなどできるはずがない。いや、考えるはずもない。

 弟君にまで確固たる意志を示されてしまっては、もはや誰もが従うしかなかった。

 こうして綱家、長資らの2500の兵を先鋒として米野村に配置、具康には1000の兵を与え中野村に配置、佐藤方政の兵1000を遊軍として新加納村に待機させ、秀信自身も1700の兵を率いて野戦に打って出ることになったのである。

 合わせて総兵力は6530だったと言うが諸説ある。


「くくく、しかしそれにしても、我への相談事が『祖父君が好んだ格好を教えて欲しい』だったとはのう」

 信長はすぐに戦場と化すであろう城下を眺めながら呟いた。秀信は一向宗の門徒である家臣の懇願を受け三成に強談判し、本願寺教如の帰洛を助けたという言い伝えもある。

 世間一般の常識とはどこかずれた強気で派手好きな武将、まさしく信長の血を引いた者ではないか。

 そして、そんな男が今、決戦に挑もうとしている。当人がどれほど戦況を理解しているかは分からないが、この戦いに敗れれば西軍の防衛線は崩壊し、敗北はほぼ決定すると言ってもいい大戦おおいくさなのである。

 このことは石田三成や大谷吉継ならば気付いているであろうが、伏見城の戦いに苦戦したせいもあり満足に動けなかった。天下の趨勢が秀信に託されたと言っても過言ではなかった。


 一方、清洲城では、福島正則を主将とする黒田長政、細川忠興、加藤嘉明、藤堂高虎、田中吉政などによる1万6000の大手勢が木曽川下流から攻め上がり、まず竹ヶ鼻城を攻め落とさんと出陣した。

 対して池田照政を主将とする浅野幸長、山内一豊、一柳直盛などによる1万8000の搦手勢は木曽川上流から攻め上がろうと出陣した。いずれも歴戦の猛者である。

 ただし渡河を開始するのは狼煙を合図にする、……という約定だった。しかし、正則と照政はこのあと武功を立てるために先陣を争った。


 ともかく秀信はひとまず搦手勢と交戦することとなった。秀信の作戦ではまず鉄砲隊を中心にして渡河する敵を撃破することになっていた。

 しかし敵が木曽川のどこを渡ってくるか分からなかったために、広範囲を守備することになった。結果的にはその作戦が裏目に出たとも言える。

 照政らは秀信勢の銃弾の嵐を掻い潜り渡河に成功し、米野に上陸を果たした。一息つく暇もなく、綱家が潜ませていた伏兵がこれを奇襲して大乱戦となった。


 ここで文字通りの死闘を演じたのが、熱き若武者・飯沼長資であった。長資はこのとき緋威の鎧を纏って赤母衣を背負っていた。乱戦の中でも非常に目立つ出で立ちであったに違いない。

 対する大塚権太夫は照政らの軍勢の中で一番槍の手柄をあげていた。戦乱の世ならば猛将として名を残していたことだろう。権太夫は秀信の家臣・武市善兵衛の首も今にも討ち取らんとしていた。

 善兵衛の弟・忠左衛門が兄の窮地に駆けつけたものの、その首は兄よりも早く権太夫の刀の斬れ味を味わうこととなった。

 ほどなくして善兵衛の首も討ち取られたが、長資は白葦毛の馬に跨り駆けつけると、「首を返せ」と叫びながら馬から飛び降り槍を持って果敢に挑みかかった。

 長資と権太夫が相対したのも暫くの間。長資の槍は見事に権太夫の首を捉えた。

 長資は権太夫の首を従者に任せて川手村閻魔堂にて指揮を執る秀信の元に送り、再び乗馬しようとしたが馬が興奮して暴れるので、やむなく徒歩で進んでいった。

 その先で照政の弟・長吉と鉢合わせて、こう名乗りを上げた。

「我こそは岐阜四天王のひとり・飯沼長資である。いざ尋常に一騎討ち致せ!」


 長資は岐阜四天王のひとりと自称したが、他の3人が誰なのかは分からない。おそらくはまだ若く、なんの武功も立てていない彼による強弁であろう。

 また、本来一騎討ちというのは名のある武士同士が一対一で戦うことであり、無名の長資が言うべき台詞ではない。

 だが、その強弁が長吉の心を打ったのかもしれない。何を馬鹿なと遮ろうとした従者を叱りつけ、自らも名乗りを上げて挑戦を受けた。

 長資も見事に善戦したものの、権太夫と一戦を交えた疲れもあったのか、あえなく討ち取られた。享年21。

 戦後は正則も思うところがあったのかもしれない。正則は長資の弟・長重に扶持を与え、のちに長重は徳川義直の下で3000石を与えられた。

 また、岐阜城の戦いにおける一騎討ちの話は他にもあり、秀信の家臣の津田元綱は敵方の兼松正吉と槍を交えたが、親交の深い相手でもあったため互いに健闘を称えて立ち去ったという。


 このように秀信勢は決して防戦一方だったわけではない。

 しかしながら、兵力の差は歴然としており、次第に押し込まれていった。遊軍として待機させていた方秀も出奔し、行き方知れずとなった。

「もはやこれまでか」

 秀信の元に送られた伝令によれば、米野での戦いが敗色濃厚というだけではなく竹ヶ鼻城も落城間近であるという。ならばいっそ討ち死に覚悟で突撃すべきか。

 しかし、それも主将である秀信が考えるべきことではない。秀信は同日夜には岐阜城に退却し、大垣城と犬山城に救援要請を行うこととした。


「ようやったのう、我が嫡孫よ」

 信長は別段変わった様子もなく待ち構えていてくれた。

「あの三佐衛門(照政)を相手にここまで奮戦したのだ。

 貴様は小田原征伐や文禄の朝鮮出兵にも参陣しているが、自らが中心となって戦ったのはこれが初めてであろう。何も恥じることはない」

 慰めの言葉によって胸の奥から何かがこみ上げるような感情に包まれた。だが、泣いている場合ではない。

 秀信は岐阜城のみならず、稲葉山砦、権現山砦、瑞龍寺山砦の防備をさらに固め、敵方の攻めに備えた。一方、竹ヶ鼻城の重勝は正則からの降伏勧告を拒絶し、自ら城に放火し自刃したという。

 岐阜城下には既に照政の搦手勢が攻め入っており、遅れてやってきた正則は照政が狼煙を待たずに岐阜城に攻め入っていたことから約定と違うと激怒した。


 23日明け方、今度こそは我らが先陣を切ると言い出した正則だったが、いざ城攻めが始まると照政はこれを無視して攻め上がった。

 再び激怒した正則は民家に火を放ち照政の行く手を阻んだが、かつて城主だった経験を活かし、この妨害を軽やかに躱し、長良川に迂回して攻め上がった。

 なお、正則は途中で軍勢をさらに二分し、黒田長政、藤堂高虎、田中吉政を大垣方面に進軍させている。大垣城から駆けつけてくるであろう三成の援軍を防ぐためである。

 実際、三成は島津義弘を墨俣に進軍させるなどして岐阜城の救援に向かうつもりだったが、これに阻まれた。

 秀信は他に犬山城からの援軍を期待していたが、実のところ犬山城に籠城した稲葉貞通、竹中重門などの多くの諸将は城主の石川貞清に反して東軍への内応を約定していたため援軍を出せる状況ではなかった。

 つまり岐阜城は完全に孤立していたのである。


 正則らの軍勢はと言うと、具康の奮戦によって攻め崩すことができずにいた。

 だが、一発の銃弾が戦況を変えた。具康がこれに撃たれたのである。

 幸い一命は取り留めたものの城の守りは弱まり、正則はその勢いのまま二の丸まで攻め込んだ。

「おおい、早く開けてくれ! 俺は偵察から戻ってきた者だ!」

 門の近くで何やら騒がしい。信長の亡霊は何かあれば秀信に報告するつもりで戦況を伺っていた。そのとき不審な男の声を耳にしたのである。

 門番もまた門の向こうで騒ぐ男のことを不審に思い初めは相手にしなかったが、「早くしてくれ! 敵はもう目の前まで攻めて寄せているんだ! 殺されちまうよ!」と切羽詰まった様子だったので、慌てて門を開こうとした。


 ――だが、やはり様子がおかしい。


「待て、開けるでない!」

 信長は叫んだが、その声は門番には届かない。門が開かれると同時に、男は刀を抜いて門番を斬り殺してしまった。

「ふはははは、騙されたな! 俺こそが福島正則の家臣、吉村宣充である!」


 男は、――宣充は小旗を掲げて、自分の存在を大きくアピールした。なんとこの男、単騎で抜け駆けし、前日には岐阜城に潜んでいたらしい。

 これを見た攻め手側は「門が開いたぞ! 一気に攻め上がれ!」などと叫び勢いに乗って、岐阜城はわずか一日で陥落した。

 長資の父・長実もこの日に討ち死にしたと言い、最後まで生き残った家臣の多くは切腹し、秀信も弟・秀則とともに自刃しようとした。

 しかしながら照政は命まで取るつもりはなく、そのまま降伏開城せよと説得したのでこれに従った。切腹した家臣たちがいた場所の床板は、のちに弔いのために崇福寺の天井に貼られたと言い、今日こんにちでは血天井と呼ばれる。


 また、秀信はこのとき付き従ってくれた家臣のために感状をしたためており、正則は戦後の処理について「さすがは信長公の嫡孫である。自らの武功と引き換えに助命して欲しい」とまで言った。

 先陣を争ったとは言え、正則と照政の両将はともに織田家には深い繋がりがあったこともあり、このときばかりは同じ想いであったに違いない。

 そのおかげもあってか、秀信は高野山への追放処分のみで死罪は免れた。

「だが、こうなっては佐吉(三成)に勝ち目はあるまい。これにて戦乱の世は終わりかのう」

 こうもあっさり陥落してしまったことは悔しかったが、戦乱の世を中心人物として生きた信長にとっては感慨深いものもあった。


 一方、三成は岐阜城陥落を受けて、大垣城より自身の居城・佐和山城へ戻り態勢を立て直そうとしていた。

 三成はこの頃弱気になっていたが、松尾山城の築城は大垣城主・伊藤盛正に命じて急ピッチで進め、枡形虎口や馬出、横矢などを備えた西美濃地域最大級の山城として完成させている。

 松尾山城は元々は応永年間(1394年~1428年)に富島氏が築いたと言い、信長の家臣・不破光治が入城したとの記録もある。三成はこれを修築したということになる。


 そしていよいよ、天下分け目の戦いが始まろうとしていた。あとは毛利輝元を松尾山に布陣させる必要があった。

 しかし、三成の誤算はここにもあった。輝元は家康に内応していた吉川広家によって押し止められ、松尾山には兼ねてより寝返りの心配があった小早川秀秋を布陣させるしかなくなってしまったのである。

 備えとして脇坂安治、小川祐滋をつけたが(江戸時代初期に成立した『当代記』には赤座直保、朽木元綱の名前はここにはない)、彼らも開戦直後に寝返り西軍はなすすべもなく壊滅した。


 世に言う関ヶ原の戦いは一次史料による研究ではこれが全てであり問鉄砲なども存在しない。東軍、西軍の呼び名も後世につけられたものである。

 ともかく戦う前に決着はついており、家康は三成よりも何枚も上手であった。いずれにせよ天下を二分する大戦はこれで終わり日の本は泰平の世を迎えることになる。


 そんな関ヶ原の戦いの前哨戦とも言える岐阜城の戦いにて、信長の嫡孫である秀信は確かに奮戦していた。

 その活躍ぶりは決して愚将などではなく、まさしく魔王を継ぎし者のあるべき姿を体現していたのだ。

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