前編
「さよならー、纏くん」
「ばいばーい、梁月くん」
下校時、女子達がいつものように赤い顔を笑わせながら、俺に挨拶をしていく。全然知らない顔も混じっている。
俺の名前は梁月纏、高校3年生。おそらくは日本一モテる高校生男子だろうと自負している。
後ろから学年一のアイドル、斉藤環奈が追いかけてきた。これで何回目だ。
「ねえ〜、纏。今日はあたしと遊ぶんでしょ?」
ま、今夜は誰も予約がなかったところだ。
たかがウチの学校のアイドルごときどうでもいいが、構ってやるとするか。
優しい顔を作って振り返り、微笑んでやると、斉藤の目がたちまちハート型になる。俺は彼女が期待しているであろう言葉を、言ってあげた。
「じゃ、俺の部屋でメシでも食ってく? 最高のデザートも御馳走するよ」
最高のデザートをベッドの上で御馳走してやると、裸の斉藤が猫になってじゃれついてくる。どうやら俺のデザートに満足してくれたようだ。
腕にしつこくチュッチュしてくる彼女を振りほどき、時計を見るともう22時だ。
「ねえ、今日、泊まってってもいい?」
そう聞かれ、俺は答えた。
「帰ってくれ。セフレと寝る趣味はない」
身体は満足しても、心は幸せにならない。
好きでもない女の子を食うのは気持ちいいが、一緒のベッドに寝られるのは邪魔なだけだ。
☆ ☆ ☆
日曜日は一人で過ごすのが好きだ。
それは一週間で唯一、素顔をボケーとさらけ出して、誰とも関わらず、女臭さからも離れて、好きなことをして過ごせる安らぎの時だ。
酒飲みには『休肝日』なるものが必要らしいが、俺にとっての『休姦日』みたいなものかな。いや、こんな言い方、変態みたいだ。俺らしくない。
大きな公園で、人の少ない場所を選んで、ベンチに座って鳩にエサをやる。
アホみたいな顔をしながらみっともなく首を振って寄ってくる鳩どもを、俺もアホみたいな顔をして眺める。
とても落ち着く。
身体中に染みついたレバニラみたいな女の匂いが洗い流されていくようだ。
とか思いながら、女の子が通りかかると、可愛いかどうかをチェックしてしまう。なんだこれ、職業病みたいなものか?
大して可愛くもなかった。56点と42点ってとこだ。声を掛けてほしそうに通り過ぎていった二人組のビッチをスルーすると、俺は立ち上がった。
「帰って勉強でもするかな」
そう呟きながら、自転車に跨り、漕ぎ出すと、横から誰かに突撃された。
「あぶなーいっ!」
どーん!と横から体当たりされて、俺は吹っ飛んだ。
幸い怪我はなかったが、何事かと顔を上げてみると、浴衣姿の女がしゃがみ込み、俺を睨んでいる。他に誰もいない。間違いなく、俺を突き飛ばしたのはこの女だ。
「あぶないでしょ!」
女に一方的に捲し立てられた。
「なんでそんなことするんですか!? 命あるものは大切にしてください! あたしが助けなかったらこの子、死んでましたよっ!?」
「ああ!? なんのことだ!?」
俺は勝手に捲し立てる女を睨み返した。
「いきなり突っ込んできやがって! 頭がおかしいのか!? 怪我してたら……」
よく見ると、女は胸に子猫を抱いていた。
そうか……。気づかなかったが俺、その子猫を自転車で轢くところだったのか。
「わざとそんなことする人、信じらんない! それでも人間なの!? おまえの血は何色だ!?」
「わざとじゃねーよ! 気づかなかっただけだ! それにしてもあんな暴力的に突き飛ばすことは……」
「あたしが突き飛ばしてなかったらあなたはこの子を轢いて犯罪者になって、この子も死んでたでしょ!? あたしが突き飛ばしたからあなたは犯罪者にならなくて済んで、この子も轢かれずに済んだ! どこに問題がありますか!?」
言い返せなかった。
しかし誤解されたままなのが悔しかった。
なんとかそれだけはわかってもらわねば。
「ごめん」
素直に謝った。
「突っ込んでくれてありがとうございます」
「今さら白々しいっ! 器物損壊罪っていうか動物虐待! これ立派な犯罪ですよっ!?」
「ほんとうにわざとじゃなかったんだ。ぼーっとしてて気づかなかったんだ。信じてくれないかな」
よく見ると可愛い女の子だった。俺と同い年か、一個下ぐらいだろうか。
清楚なおさげ髪にシンプルな浴衣がとてもよく似合っている。睨む目つきも正義を湛えて凛々しかった。
俺の周りには一人もいないタイプだ。
俺を憎むように、きゅっと結ばれたその唇を、柔らかくしたくて、どうしてもこの子の笑顔が見たくて、故意じゃないことを丁寧に丁寧に説明し、非はすべて自分にあったことを認めた。
すると彼女はわかってくれた。
「すっ……、すみません! そっか……。気づかなかったんですね?」
途端にすまなさそうな表情になり、顔を真っ赤にして謝りはじめる。
「そういうことありますもんね……! あたしも……。気づかずペットのフェレット踏んづけちゃったことあるし……」
そしてぺこりと頭を下げてくれた。
「……ごめんなさい」
「いいよ。わかってくれたんなら。君が言う通り、君が突撃してくれなかったら俺、その子轢いちゃってたし」
すると彼女が固く結んでいた唇を開き、にっこりと笑ってくれた。
その笑顔が俺をたじろがせた。
「あなたがいい人だってこと、よくわかりました。あたしのほうこそ怒ってごめんなさい。ちゃんと前見て、気をつけて運転してくださいね」
それだけ言って歩き出しかけた彼女を俺は呼び止めた。
「ね……、猫にも謝らせてくれないかな」
「あっ。はい」
「ごめんな。轢きかけちゃって……」
彼女が差し出してきた子猫の頭をすりすりと撫でた。子猫はなんでもなかったように、笑うように目を細め、頭をなすりつけてきてくれた。猫を撫でるついでに、彼女の手にも、わざとらしくなく、触れた。
彼女の手は冷たくて、とても綺麗な匂いがしそうだった。
食いたい──
いつもならそう思うところなのに……
彼女に興味を惹かれながらも、不思議なことに、俺はまったくそういう肉食獣のような気持ちにならなかった。
それでもいつもの癖のように、俺は彼女と仲良くなろうと──というよりは彼女を俺の虜にしてやろうと、口説きにかかる。
「俺、金持高校の3年で、梁月纏っていうんだ」
県内の女子でこの名前を知らないことはまずないだろうと思いながらも、俺は名乗った。
「……君は? 高校生だよね? こんな可愛い子、俺が知らないなんて、迂闊だったな」
こう言えば女はみんな夢を見るように笑い、顔を赤くする。
ところが彼女は俺の言葉など聞いてもいないように、子猫に「よかったねー、猫ちゃん」とか話しかけている。
俺は柄にもなく少し焦って、聞いた。
「名前……、教えてくれない? 通ってる高校の名前も……」
「あたし、そういう軽いノリ好きじゃないんです。ごめんなさい」
素早く頭を深々と下げて謝ると、彼女は走り去った。
その夜、眠れなかった。
彼女が一瞬だけ見せてくれた、あの笑顔が忘れられなくて。
名前が知りたい。どこの高校なのか知りたい。どこに住んでいて、どんなものが好きで、なぜ浴衣を着ていたのかとか……
こんなことはなかった。
こんな気持ちになったことなんて、なかった。
女はいつも向こうから寄ってくるもので、俺のほうから追いかけるものではなかった。
俺に声を掛けられて喜ばない女なんて、いなかった。
── あたし、そういう軽いノリ好きじゃないんです。ごめんなさい……
冷たくそう言った彼女の言葉が、ずっと胸に刺さって、疼いていた。
一人暮らしのアパートの部屋で、いつも寝る時は女を帰して一人だったが、今夜は隣に誰かが寝ていてほしくてたまらなかった。
★ ★ ★
月曜日の夜はユウカを抱いた。
学校帰りに例の公園へ行ってはみたが、あの子はいなかった。
諦めて電話をすると、ユウカはすぐに飛んで来た。
「なあ……」
事が終わった後、俺はユウカに聞いた。
「あそこの公園の近くで、昨日の日曜日、なんか夏祭りとかやってた?」
「なんで?」
裸の背中を見せながら、缶コーラをサイドテーブルに置いて、ユウカが不思議そうに聞く。
「纏、お祭りなんかに興味あったっけ?」
ユウカの肩に入っている世界樹のタトゥーをぼんやり見ながら、何と答えようかとしばし考え、正直に言った。
「昨日、あの公園で可愛い女の子に会ったんだけどな、浴衣姿だったから」
「あらら。何? その子に恋しちゃったの?」
「んなわけあるか。俺が一人の女のものになると思うか?」
カッカッカとユウカが笑う。再び缶コーラを持ち上げた指先をぼんやりと俺は見た。青いネイルにくっついたパンダがなぜだかムカついた。
「そうだよね〜。纏はみんなのもの。誰か一人のものになんてならないもんね〜」
なぜだかまたムカッとした。それで言い方が脅すような口調になった。
「教えろよ」
「んー……。お祭りはやってなかったと思うよ? 知らんけど。でも纏が名前も連絡先も聞き出してないなんてこと、まさか……ないっしょ?」
「教えてくんなかったんだよ」
「あー……。それで?」
ユウカがわかった風に手をぽんと叩く。
「ムキになってるんだね? 攻略しなければ気が済まない! みたいな? それにしても纏になびかない女の子って、いるんだねぇ」
「うっせー! 帰れよ! 早く帰れ!」
「はいはーい。言われなくてもいつものように帰りますよ〜」
「いや……。待ってくれ」
「んっ?」
「今夜は……一緒に寝てくれないか」
「あら珍しい。どうしたの?」
俺はユウカの髪に顔を埋めて眠った。
助けを求めるように、ぎゅっと抱きしめて。
あの子の笑顔がそれでも頭から消えなかった。
とても安らぐ、信頼できる、育ちが天然そうで、まっすぐな笑顔。
今、ここにはない笑顔。
「ちょっと〜……纏、そんなに抱きつかれたら寝苦しいんだけど〜」
ユウカにそう言われたが、構わず俺は藁に掴まるように、パーマでクシャクシャの髪を抱き続け、そのうち眠りに落ちた。
☆ ☆ ☆
火曜日も、水曜日も、学校帰りはずっと公園へ行ってあの子の姿を探した。
あまりにも手がかりがなさすぎた。偶然を期待して自転車をゆっくり漕いで回っていると、何人か似た後ろ姿を見つけはする。しかし声を掛け、振り向くと別人だ。俺に声を掛けられみんな喜んだようだったが、俺はつまらない気持ちが溜まっていった。
それにしてもなぜ、こんなにもあの子を探してしまうのだろう。
ユウカの言う通り、攻略しなければ気が済まないからか?
いや、何かが違う。
今まで知らなかったこの気持ちに何と名前をつけたらいいのか、わからなかった。
★ ★ ★
また日曜日がやってきた。
日曜日なら会えるかもしれない。俺は期待に胸を膨らませ、朝4時から公園にいた。
動物が好きそうなあの子にあげるために、猫のぬいぐるみを膝に置いて。
あの、俺が子猫を轢きかけたところの側のベンチに腰掛けて、ただ景色を眺めながら、あの子を待ち続けた。
6時になっても、8時になっても、12時になっても、19時になっても、あの子は現れなかった。
そりや、そうだよな……。
あの子は浴衣を着てた。何か特別なイベントの帰りだったんだ、あの日は。
だから今日は──
俺はがばっ!と背筋を立てて、夕日の方向を凝視した。
シンプルなデザインの浴衣に身を包んだ女の子が一人、大きなシェパード犬を連れて歩いてくる。
あの子だ!
俺は急いで立ち上がった。
彼女は俺がいることには気づいているようだったが、誰だかわかっていないのか、目を合わせないように近づいてくる。
急に方向を変え、まるで逃げるように早足になったので、俺は遠くから声を掛けた。
「プレゼントがあるんだ!」
彼女が走り出した。シェパード犬が喜んでリードを引っ張って、彼女を加速させる。やめろ、犬! 彼女の浴衣がはだけてしまう! めくれてしまう! やめてくれ!
「待って……!」
俺も走り出した。浴衣姿に草履履きのくせに、全速力でも追いつけない速さだった。
彼女が甲高く悲鳴を上げた。なぜだ! もしかして俺だとわかっていないのか!?
「俺だよ! 俺っ! 纏だ! 梁月纏っ! 忘れるわけないだろう!?」
俺が叫ぶと、彼女がぴたっと止まった。ようやく、止まってくれた。
「ああ……」
息を切らしながら、俺の顔をじろじろと見、彼女が言った。
「猫ちゃん轢きかけた人……?」
「また会えて……よかったっ!」
俺は猫のぬいぐるみを差し出した。
「これ……、こないだの……お詫びっ!」
彼女はチラリとぬいぐるみを見ただけで、受け取ろうともせずに、怯えるような顔をして言った。
「何? もしかして……ストーカー?」
「違うっ! 違うよっ!」
俺は泣きそうになってしまった。
「俺が……そんなものに見える!? ただ……こないだのお詫びがしたかったんだ……っ!」
「いりません」
彼女が明らかに怖がっている。なぜだ。
「寄らないでください」
「じゃあ、正直に言うよっ! 俺、君のことが好きになっちゃったんだっ! 名前、教えてよっ!」
「あたし……イケメンさんて、ダメなんです。趣味じゃないです。ごめんなさいっ!」
ぺこりと素早くお辞儀をすると、慌てて走って逃げ出した。
逃がすものか。
ここで逃したらもう、一生会えない。そんな気がしていた。
シェパード犬を連れて歩く彼女の50m後ろから、見失わないように尾けていった。
電柱に隠れ、塀の陰に隠れ、隠れるところのない場所では彼女を先に行かせてから走って追いかけた。
彼女は何度も警戒するように振り向いていたが、俺は見つからなかった。どうやら尾行の才能があるようだ。刑事にでもなろうかな。
彼女が急に走り出した。ちっ! 気づかれたか!? いや、そんなわけはない。俺の尾行は完璧だったはずだ。
角を曲がり、彼女の姿が視界から消えた。
この角をついて曲がった先で待ち構えているかもしれない。そう思ったが、構わなかった。見失うよりは、また顔を見られたら嬉しい。
そう思いながら角を曲がると、彼女の浴衣の裾が見えた。家の門を開け、そこへ入って行くところだった。
少し時間をおいて、俺はその家の前に立ち、表札を見た。
『蒲池』と書いてあった。
その下に、家族の名前がすべて書いてある。
『蒲池紀夫、響子、泰生、春子』
春子……
春子か!
あの子の名前は蒲池春子か! なんて地味……いや古風で、可愛くて、彼女に似合っている名前なんだ!
二階のカーテンが開く気配がしたので、俺は慌てて門柱の陰に隠れた。
そっと目だけを覗かせて見ると、窓から彼女の顔が見えた。不安そうに、前の通りを覗っているようだ。
名前がわかった。
家も、覚えた。
これでもう、あの子を見失うことはない。