第9話 響姫と音楽
彼女にとって音楽とは、挫折と敗北そのものだった。
両親が音楽教師で、子供の頃から音楽に触れてきたが、才能には恵まれなかった。
幼稚園の時はピアノを習っていたが、ドの音を出すつもりが、いつもレの鍵盤を押していた。彼女は毎日ピアノにかじりつき、なんとか正しい鍵盤を弾けるようになる。しかし、その程度は当たり前、と母に言われた。表現力こそが必要らしい。しかし、彼女にはそれがなかった。自分では素晴らしい演奏をしているつもりなのに、発表会で賞をもらうのは、いつも別の子だった。
ピアノがダメならと習ったバイオリンも、正しい高さの音を出すのに苦労した。なんとかドレミファソラシドができたら、父に言われた。この曲の精神を理解して、表現するんだ、と。でも、いくら練習してもそれを理解する日は来ず、発表会で賞が取れることはなかった。
曲の精神とはなんだろう、表現とはなんだろう? 音が正しく出せることが、ゴールではないのだろうか。どんなに一生懸命取り組んでもわからなくて、高校生になるころには、楽器を弾くのをやめていた。
音楽を聴くのも嫌いになった。彼女はゲームセンターに通った。とりとめもまとまりもない、様々な音で溢れていたからだ。バラバラな音の集合に、精神などはない。そう考えると安心したのだ。
でも、松江のあるゲーセンで、雑多な音の中から一つだけ、整った典雅な音楽が流れてきた。ピアノとバイオリンの切ないメロディだ。
嫌いなはずなのに、気づいたら吸い寄せられていた。
プレイヤーが、筐体のモニタをなぞっていた。正しいリズムで、正しい音がしていた。それだけで満たされた。
それを遮るように、頭の中で声がする。
精神を理解するんだ。
音楽を表現するのよ。
耳を塞ごうとした時、スピーカーから声が聞こえてきた。
「You are MAESTRO」
そうか。あの世界の中では、正しいことがいいことなんだ。正しくリズムを刻むことが、一番良いことなんだ。
あの世界なら、自分も音楽ができるのではないか。
それが、ファンタジックオーケストラと、柳楽響姫との出会いだった。
鳴海は、教室の自分のいすの横で、立ち尽くしていた。
「あの」
窓際の一番後ろの席を中心に、数人のクラスメイトがどっかりと席に座り、大声で話に興じていたからだ。
「てかさー、あたしの彼氏がありえなくてー。友達入れて遊びのときに、あたしより友達の彼女と話してんの。まじありえなくないー?」
「ハハ、それあんた、捨てられんじゃない?」
「知るかっての、あたしのほうが捨てたいんだけどー」
「あの……そこ、私の席……」
何回目かの声かけで、やっとクラスメイトは振り向く。
「何? 声小さくて聞こえないんだけど」
鳴海は意を決して大声を出した。
「そこ、私の席なんだけど!」
気まずい静寂が漂って、クラスメイトは眉をひそめる。
「うわ、びびった。逆にでかすぎでしょ」
「なえるわー」
彼女らは、いかにも嫌そうに席を移った。
鳴海は、顔を真っ赤にして席につき、机の中身をかきだして鞄に詰め込む。周りには生徒はいない。
はあ、とため息をついた。
鳴海にとって、教室は自分らしくいられない場所だ。うまく主張できず、何を言うにもぎこちなくなって、思いを伝えられない。そのせいで、表面的な会話をするばかりになり、親しい友達はできない。
ゲーセンだと積極的に、一生懸命になれるのに、教室ではいつも片隅で縮こまっているだけだ。音ゲーの新しい仲間を見つけ、大会に出場を決めたとしても、それは何は変わらなかった。
だからこそ鳴海は思った。
今、全力でファンオケがしたい。プッシュボタンを思う存分押したい。ステップマットを力いっぱい踏みたい。スワイプモニタを、心を込めてなぞりたい。
唄江と、響姫と、eインターハイに出るのだ。
鳴海は意を決して立ち上がった。
――唄江がそれを受け入れるかどうかも、そもそも響姫が参加するかどうかも、まだわからないけれど。
「柳楽さん? どんな子?」
三年生の教室前で、上級生に話を聞いた。
「自分のことを氷の女王って言って、ゴスロリの服装をして、子分をいっぱい引き連れて、ゲームセンターでエイリアンエナジーを一気飲みする人です」
「そんな子、いるわけないでしょ」
「確かに……」
鳴海は納得した。そんなクラスメイトがいれば、絶対に記憶に残っているはずだ。
「やっぱり、人違いじゃない?」
三年生の教室の前で手帳の写真を見ながら、唄江は眉をひそめた。
柳楽響姫、三年生。
眠そうだ。ボサボサの黒いショートヘアに、吊り目がちな半分閉じたまぶた。でも輪郭はスマートで、まつげは長い。目をよく開けて髪を整えれば、美人、と言えそうな気がした。
「ねえ、やめよう、鳴海。あんな人、仲間に入れちゃダメだよ」
唄江は小さな手を握りしめて訴えてくる。
「確かに、あの人は悪者かもしれないよ。でも、プレイはすごく綺麗だった」
先週の土曜日、鳴海の生活は大きく変わった。
松江のゲーセンでいつものように唄江とファンオケをプレイしていたら、東京から来た山本さくらに出会い、ゲームの全国大会、eインターハイへの出場を勧められたのだ。鳴海は迷った末に参加を決意したが、出場には三人のチームが必要だ。
鳴海は筐体を占領していたプレイヤー、響姫が落とした手帳から、彼女が同じ高校の生徒だと気づいた。そこで、チームに勧誘してみようと思ったのだ。
「柳楽さん? あの人だよ。いつも寝てる」
E組の生徒が、窓際の机を指さす。そこには、突っ伏して寝ている女子生徒がいた。ボサボサの黒髪だ。
「一回も話したことないからよくわかんないけど」
鳴海はそれを聞いて、少し響姫に親近感を覚えた。
彼女はきっと、教室で音ゲーの話などしないし、エイリアンエナジーを一気飲みしたりもしないのだろう。
「やめようよ」
鳴海は、唄江の静止を振り解き、突っ伏している彼女の近くに立った。
「柳楽先輩」
声をかけると、彼女はピクリと動くが、すぐに止まる。
「あの、柳楽響姫さん」
反応はない。明らかに狸寝入りだ。
鳴海は、胸に手を当て、呼吸を整えた。そして、深く息を吸うと、彼女の耳元で大きな声をあげた。
「氷の女王・響姫さま!」
「やめなさい」
彼女は顔を上げて鳴海の袖をつかんだ。寝不足なのか、目元にはクマがかすかにできている。