アライブ 3
甘ったるい臭いに気がつき、まどろみから意識が覚醒する。
煮詰めた果実と砂糖と甘味料に、小麦の野暮ったさ。
目を開ければ、白髪の少女がテオが買い与えた囓りかけの安価なジャムパンを両手でテオの口に押し当てていた。
「だいじょぶ、おいしはだいじょぶの、だから、おいしい」
むにむにとドロドロで塞がれて、これではろくに口も利けない。
テオが眠っていたのにも構わずに食わせようとしていたものだから、せっかくのジャムパンは潰れてしまってツクモの真っ白な指の間からベリーが漏れている。
「おいし、おいし、おにいちゃん」
「っ、わかった、もうわかったから!」
額を押し退けながら悲鳴を上げるテオに、ツクモは不満そうに「むう」と吐き、なおもジャムパンをテオに食わせようとしてくる。
ああ、もう!
口の周りのジャムを親指で拭い、しゃぶってから言ったのだ。
「これでいいだろ! ほら、食べたから」
ぱちくり、まばたき二回。
「たべた、たべる、おいしい? だいじょぶ、だいじょーぶ?」
「ああ、もう! だいじょうぶだよ、ありがと!」
やけくそ気味に返事してやった。
不可思議なことに、テオの身体は本当に快癒していた。
億劫さも無ければ、ツバが伝う度に感じた喉の痛みもない。
体調はマンションで暮らしていたころのように快適そのもので、それどころか、あれから二日が経ったが、ずっと快適のままであった。
「ん、べつに」
こくりこくり、と白髪を揺らして。
理屈に合わないことだ、助けてくれたのはツクモで間違いない。悍ましい実験によってツクモが手に入れてしまった常態を維持し続ける埒外の力に、彼女はテオを巻き込んだ。
はたして、その自覚が彼女にあるのだろうか。
食事が必要無い身体にしたくせに、せっかく買い与えたパンを目を覚ます度に押しつけてくるところから、もしかして分かっていないのではと、テオは疑っている。
彼女を責め立てる気は無い、テオの考え足らずで追い込まれた結果なのだから、責任は自分にある、分かっている。
受け入れ難いのも事実だった。
確かに飢餓と苦しみと死の気配に支配されたとき、彼女と同じようになれたらと願った。
実際に以前から変化したこの身体は、はたしてどれほどのものだろうか。判断に困る。以前とまるで変わった所感も違和感も無いからだ。
明確な変化は空腹や疲労を感じなくなったという点だろう。眠気もあるし、ツクモと違い正常に代謝もある。
彼女と同様の存在へ成ったとは言えない。
なによりも、限界の中でツクモが魅せたあのコミュニケートがテオにもできるとは思えない。
アレこそが『新しい生命』の骨頂だ、あの素晴らしさに比べれば、たかだか死なないことがなんだと言うのだろう。所詮は個体の性能に留まった話なのだから。
たったそれだけのことで既存生命体を逸脱したと不遜を豪語するのは誇張が過ぎるのではないか。
では、テオの身体の変化はどれ程のものだろう。あの実験記録のツクモのように、銃弾を撃ち込まれたって即座に回復できるのか、そこまでの力は無いのか。
まさか自分で自分を傷つけて程度を測ろうとは思わない。テオは自らを省みることを知っている。
なんにしたって、逃げるならこれ以上の有利はない。
動き続けることが出来て、本来はどうやっても切り捨てられない食料を切り詰められる。
今やらなければ、これでやれないのであれば、いつまでだってこの路地でうずくまるだけだ。そして、待ち受けるのはやはり限界とヤツらの手綱を首に巻く屈辱の未来だ。
いくんだ!
計画は立てた。そのために頭を使った二日間だった。
目指すは都市の向こう側、監視を嫌い、デヴァイスを持たない主義の人間達のコミュニティだ。
そこで身を隠す、暫くしたら違う場所に行く。それを繰り返すのだ。この先の人生を全て逃亡に使うことに成るかもしれない。
それでも、ヤツらに使われるよりマシだ。必ず逃げ切る。
果ての見えない、途方もない旅路となるだろう。
普通なら不可能に決まっている。
この時代で、生活拠点を持たないただの子供が生きていけるはずが無い。金を使わないで現代都市を生き抜くことは不可能だ。
現代都市を生きると言うことは、消費するということなのだから。
でも、今なら出来てしまう。
食事を必要とせず、最悪は休まなくても動き続けられる。都市の恩恵を受けなくても生きていくことが出来る。いつか考えていたように、誰もいない場所でターザンをやったっていいかもしれない。
テオは、それが出来る身体になった。これは、きっと奴らだって想像だにしていないだろう、これこそが付け入る隙だ。
「ツクモ」
呼んで、手を握る。
「いいかいツクモ」
彼女が理解できることを信じて、言葉を言い利かせる
「これから、ボクらはすっごく歩くし、ご飯も食べれなくなると思う。でも、いつか、そう、いつか必ず二人で、今度こそ誰からも支配されないで生きられるはずだ。ボクはそんな未来を求めてみたい、だから、一緒に耐えて欲しい、お願いだ」
「ん、いっしょ、いっしょ、ほしい、よ」
彼女はきっと遊んでいると勘違いしている。ふらりふらりと髪を振って頭を揺らしていた。
いいさ、その分こっちでしっかりやる。
ツクモを守ってやる。
そうする理由は、そうしなければと思えた根拠は……。
ああ、きっと、
彼女と繋いだ手の温もりが、答えだろう。
さあ、行くぞ!
薄暗い路地から陽光の大通りへ進む。
ツクモの手を取って進む。
マンションを出てから行動する時間は朝方と夕刻で、それ以外の時間は殆どを動かずに過ごしていた。
いつか、図鑑かなにかで知った猫と言う名称の獣と同じ生活形態だ。
たしか、2■■0年代ほどまでは生身の動物を愛玩する習慣があったのだったか。猫は最もポピュラーな対象の一つに数えられていたはずだ。そのくせ、ストリートには同じか、それ以上に放逐されていたらしい。
時代が進むにつれて愛玩の対象は人工無機物、VRデータと代わり、いまでは、面倒を背負い込んでそんなことをやりたがる人間はいなくなった。もちろん、自然保護区画の管理員やDNA保護施設の研究員なんかはそれらを取り扱っているだろうが、一般でやっていたら奇人、変人の類いに見られるだろう。
久方の絶頂の太陽の明かりを受けて、目が眩む。
掌でひさしを作り、細めた目を開けていく。
「はっ?」
そこに、いたのだ。
無骨な、大袈裟な、まるで映画のバイオ実験に出てくるような主張の激しいスーツ。
自壊衝動精神疾患の罹患者が、テオの敵が管理する対象が、まるで監視者のようにそこに立っていた。




