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アライブ 2


 生活はあっと言う間にたち行かなくなった。


 人間は、動かないようにしていたってすぐに臭くなることを知った。

 デオドラント系の配合された心地良い香りは、もはやこの身体には微塵も残っていない。あるのはテオが洗い流すことで免れてきた、生物が本来垂れ流しつづける腐敗と汗の醸す臭気だ。


 空腹は波でやってくる。

 その場でしゃがみ込んで動けなくなるくらいの気怠さと、みぞおちの中をじくじくと虐めてくる困窮は、じっと我慢しているといずれ、いくらかマシになる。その隙間にまるでフィルターが掛けられたかのように明瞭になら無い、浮いたような感覚のなかで手の震えを抑えながらやるべきことをやる。それが終われば再び空腹が訪れ、我慢をした。

 飢えは思考を奪いながら、しかし苦しみだけは着実に与えた。

 どうにかしなければという焦りは、おろおろと見過ごしいる間に消えしまっていた。


 ツクモだけは変わらない、ずっと綺麗なままだ。

 テオのように臭くなることもない、かつてはしていたはずの排泄だってしなくなっていた。


 常態を維持し続ける存在。

 環境に侵されず、何者にも損なわさせない純白。

 新たなる、ヒトのカタチ(いのち)

 モールで初めて異質を目の当たりにしてから、けっしてテオは彼女のソレを受け入れたわけでは無いのだと思う。ただ、見ないことにしていただけだ。

 それでもテオはツクモを置き去りにしたり、側を離れたりはしなかった。


 彼女には必要ない、だから、少なくなったクレジットの残高を消費してまで彼女に食事を買ってきてやらなくたっていいじゃないか。

 頭のなかにそんな考えが何度も何度も浮かんだ。

 彼女はテオが何も与えなくても生きていける、余裕が無い中で彼女のための負担は真っ先に切り捨てるべき項目だ。


 それを分かっていながら、テオはツクモのための浪費を止められなかった。少しでも破滅を遅らせようと、自分の食い物を我慢しても、彼女にだけは必ず食べ物を与えた。

 彼女がほっぺたを膨らませてパンを食べるのを、唾液を呑みながら見ている自分がマトモかどうかさえ、判別がつかなかった。

 ただ、やらなければならないという意識だけが残っていて、諾々と従い続けたまでだった。

 ああ、いっそ……、テオもそのカタチに追いつくことができたのなら。


 ぎゅるぎゅる鳴る腹を抑え付けながら、いつからかそんな望みを抱くようになっていた。



「おにいちゃん」

「……ぁ?」


 あれ、何をしていたっけ。

 もう、明るいじゃないか。

 なにをしなくてはいけないんだっけ。


 AIが荒い画像の読み込みと補正に手間取り、ハイライトとピクセルの調整をしているときみたいに視界がぼやけて、小さな光があちこちに明滅している。


 耳鳴りがする。

 まるで、ネット上のアバターを感覚モジュールを使って操作しているみたいに、リアリティが伴わない。

 俯瞰して見る様な、どこか他人様のことのような、自身を薄弱にしか認識しない。


「おにいちゃん」

「……ん、」

 なんだよ、ツクモ。

 そう言ったつもりだったが、はたして、喉は正しく鳴っただろうか。


「いたい、いたいいたい?」

「……」

 いたい、か。

 うん、痛いのだろう。

 手足は痺れたみたいに鈍いのに、みぞおちや下腹の辺りのジクジクは、はっきり感じる。

 ダメなんだろうな、と思った。


「いたい、やだ、いたいのやめて、だいじょうぶ、だいじょーぶに、なって」

 聞こえてるって、だいじょうぶ、だろ。


「ぁは……」

 吐息が溢れた。

 可笑しかったから。

 前まではテオが呼んでツクモが答えていた。それがまるっきり逆転している。何度も実感してきた彼女の変化をこんなになっても顕著に感じる。


 感心してしまう。

 うれしかったんだ。


「ぁ、は……」

 彼女がテオに関心してくれることが、その成長が、その心の萌芽が、繋がりが。

 テオじゃ無い誰かの中にテオを感じられることが、喜びだった。


 だからこそ、思う。

 特別な彼女と同じになれたら、と。

 そうすることが出来たのなら、きっと、もっとツクモのことを理解(わか)ってやれる。その精神に寄り添うことができるだろう。


 だけど、それは叶わない。

 テオは特別では無い。

 ただの者だからこそ、あの日あの夜に、身体を切り捨てて向こう側へ跳び越えることが出来なかったのだから。


 ごめんね、いろいろとさ。

 身体が弱っているせいだろう、自覚さえしていなかったいろんな見栄っ張りを通り抜けて、素直に思えた。


「あ、あう、ああ、いや」

 泣いちゃダメだよ。

 だいじょうぶ、だいじょうぶなんだ。


「……い、……ょう」

 そうとも、だいじょうぶなんだ。きみにはもう、生きるための力があるんだ。


「……いき、て」

 生きるんだ。

「おにいちゃん、おにいちゃ、……てお、てお、テオ!」


 ツクモの両手が無遠慮にテオの頬骨を包んで持ち上げる。

 あったかいなと感じた。

 やっぱり痺れているみたいにはっきりとはならないけれど、そこに確かにツクモから流れてくる熱があった。


 ああ、もう、ダメなのに。

 彼女の赤い瞳からは涙が流れていた。

 小さな唇はぎこちなく動いては、たった二つの音を繰り返している。


 テオ、テオ。


 ツクモが名前を呼んでくれている。


 ほんとにさ……。

 なんで、これだけのことが、こんなにもうれしいのだ。


「テオ、テオ、テオ!」

 ぴとりと、額と額とが、着く。

 涙を貯めた揺れる赤い瞳がいま、テオの瞳の正鵠を射た。


 ―― テオッ! ――


 悲鳴に似た声は、やけに鮮烈だった。

 

 ()()()のでは無い。

 もっと本質的だった。


 ()()

 他者の意思を受け止めるという行為。それをこれ程の精度を以て伝えることは、所詮は感覚器越しの遠隔したやりとりでは実現できるはずも無い。


 テオには分かった。

 ツクモがどれ程の悲しみでテオの名を呼んだかも、どれほどにテオを大切に感じ、哀願しているのかも、まさしくは心を繋げて彼女を理解した。


 もしも、このコミュニケートをすべての人類が習得したならば、なるほど、世界は既存を捨て去ることになる。

 きっと他人は他人だなんて言わなくなる。

 理解されない苦しさも、理解できない煩わしさも無く、その痛みを解し、自らも思い知り、イメージを完全に共有することが出来る。

 懊悩と孤独を克服することができる。

 それは思考生物としての完成と言っても、過言では無いだろう。


 ナラバ博士はこれを目指したのだろうか。

 この理想を願いながら、真逆とも言えるツクモの意思を尊重しない非道を繰り返したというのだろうか。


 矛盾だ。

 あのモノクロの花束から、博士が人類の心の不感性を嘆いていたことは理解に難くないのに、本人がその不感性故にしか起こし得ない残酷さを許容するなんて、大目標の思想を蜂起しているではないか。

 そんな博士が、人類が、はたして本当にこの進化に到達出来るものだろうか。

 

 ―― テオ、テオッ! ――


 聞こえているさ。

 目の前でテオのためだけに感情をいっぱいにしてそれを伝えてくれる愛おしい彼女の髪をテオはいつもやってあげていたみたいに、梳くよう撫でつけた。


 それだけで、ツクモが伝えてくる想いは超新星を起こしたかのように悲しみから一変し、これ以上なんてあり得ないと言うほどの喜びでテオを満たしてくれた。


 テオには博士達が、こんなにも他者の心に歓喜できるツクモのような存在に生まれ変われるとは、到底思えはしなかった。



 自立し、成長するのだ。

 最後に残っていた甘えさえ捨てて、彼女をこの街の外へ、もっと遠くへ、アイツらの及ばない場所へと、連れ出さなくてはならない。

 本当は、最初からそうするべきで、マンションを捨てただけで満足して近場から離れられなかったのは、テオがまだ臆病だったからだ。知らない場所へ行くことを決断できなかった。

 手に入らないなら、彼らは今度はツクモをどんな目に合わせるだろう。想像するだけでもぞっとしない。


 今度こそは、決めなくてはならない。

 何処までも逃亡する決意を、今度こそは、決断する。


「きみを連れて、何処までだって……」 

 衰弱していた身体と思考に力が戻ってくるのを感じながら、テオは言葉にした。



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