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花束 2


 『我々は命か物か?』

 

 博士の著書にあった一文だ。

 一冊のなかで、テオにはどうしてもその一文が浮いて見えた。

 聞き慣れない単語を羅列する小難しさで煙に巻いた文章の中で、その一文から続く文字だけが言葉に思えた。


『我々は命か物か?

 物理世界はあまりに明確で確立している。付けいる隙が無く完全である。

 故に我々は物理的なコミュニケーションに固執した存在に進化した。目で見て、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、肌で触れあう。

 それらで人格を満たし、信じ込み、全きにする。

 では、感情とは?

 その根源とは何処にある?

 頭蓋の中身に詰まる味噌に詰まっているのか?

 私はそうは考えない、肉体とは物理世界に最適応するための媒体であり、我々の根源、人格は本来、手で触れられない場所にこそ位置するのではないか。


 だからこそ、問うのだ。

 我々は、命か? それとも物か?

 生命である我々が、なぜ死に憧憬する現象が起こりうるのか。

 それは、我々が高度に発展したマインドを持ってしまったからに他ならない。

 五感に信奉した我々は物理世界に依存するあまり、物としての摂理にマインドまでが影響されてしまっているからだ。


 形在る物はかならず崩壊する、それこそが物理世界の絶対法則である。

 肉体に依存した我々は、精神をこの物理世界に反映するための媒体でしかなかったはずのこの頭蓋の中の味噌に、元々は持ち得なかった欲求をプログラミングし、持ち込んでしまった。

 物が物である限り、壊れようとする衝動である。

 そのエラーコードは我々の精神が肉体とアンチューンした際に命らしからぬ不可解な挙動を引き起こす。

 そのとき、我々は命ではなく、物になる。

 命が持ち得る生存欲求は結着性を失い、肉体から剥離する。


 はたして、そんな不安定な天秤を渡る私たちは、命であるか、物であるか?』


 ここだけ抜粋すればまるで哲学書だ。

 命なてものについて問うなんて、まさしく太古から偏屈屋が飽きもせずにやって来たそれなのだから。

 博士が学者を名乗り、何かを明らかにすることを生業とするならば、必ず到達点があるはずだ。列挙した持論を血肉に、費やした時間で成形し、目指そうとした答えが無くてはならない。

 きっと、それが、この仮説なのだろう。


『もしもだ。

 命と物の狭間を超越し、破滅衝動を克服することが、そんな命が在り得たのであれば、その者こそは、既存するあらゆる命とはステージを隔てる、新たな生命体と言えるだろう』

 

「新しい、命の在り方」

 これが、博士が目指した、研究の終点。


 寒気すら覚えた。

 髪はきちんと乾かしたはずなのに、滲み出た液体が額から流れて顔を這う感触があった。


 戯れ言にすら思える突飛な言だ。

 だけど、わらえない。

 博士は誰にも理解されなくても、自分のやるべきことをきちんと理解している人だ。だからこそ研究所でも認められていた。

 博士の研究を理解しなくても、テオはその事を知っている。


 だからこそ、こんなにも戦慄を感じてしまう。

 博士がテオに関心があったのも、きっとその『新たな生命』に関するなにかがあったからだ。

 テオに背中を向け、机上の紙にインクを走らせていた博士は、そんなことを考えていたのだ。テオの一挙手を観察し、記録をつけ、それを自分の野望のためにどう使えるかをずっと考え続けていた。


 ああ、またこの感じだ。

 胸の奥が抜けていく、空腹では無い、痛みとも違う不快。


「くそっ!」

 バイタルはどうした! これは異常なのに、どうしてなんにも言わない。

 こんなもの、また床に投げてやろうか!

 デヴァイスのロックに指を掛ける。


「ッ――!」

 泣きたくなって止めた。

 ばかばかしい、こんなことに意味は無い。それに、まだ博士のことを調べ始めたばかりだ。いちいち手を止めてられないんだ。

 深呼吸をして、ゴクリとツバを呑み込んでから、データの閲覧を続ける。まだ、『花束』になにを見いだせばいいのか分からない。探さなくてはならない。


 深夜のリビング、テオのものではない呼吸音が微かに聞こえてくる。

 ツクモはテオの隣で眠っている。前は眠るときは行儀よく勝手にベッドに戻っていたのに、不良になったものだ。

 これは、はたしてツクモの成長と言えるのだろうか。

 言われるがままだった頃とはもう違う。これからも、きっと目覚めた自我はツクモを我が侭に変えていく。


 ツクモは死に対して脆弱な、屑っ端(デブリ)から変わろうと――

 

 天啓とは、まさしくそれだった。突如として、その閃きがテオの思考に落ちてきたのだ。そして、気づいてしまえば、当然の結びつきに思えた。


 破滅衝動を克服することで生まれる、新たな生命体。

 理屈では説明がつけられない、そう呼ぶに相応しい異形をすでにテオは目撃している。


 ツクモだ。

 この隣で眠る白無垢の少女こそが、博士の誇大妄想の実現なのだ。


 すでに、博士は悲願に手を掛けている。

 それに、確定した。

 博士は、奴らの仲間だ。

 フレームの外側で、ツクモを泣かせて喜んでいた奴らと一緒にいたのだ。


「なんで、なんだよ……」

 空気が喉で詰まる。

 すごく、胸が痛い。

 鼻の奥がツンとした。


「あ、れ」

 うそだ、なんでだ。

 なんで、泣いているんだ。

 ぼとりぼとりと、なんてみっともない。


 自分の感情を自分で制御できない歳じゃ無い、そのはずだろう?

 とまれとまれ、とまってくれ。


「ぅっ、……うぁ……」

 拭っても拭っても、拭ったそばから濡れていく。


 衣服越しに爪を立てて胸を握った。

 物理的な痛みでは、まるで誤魔化せそうに無かった。


 どうしてこんな想いをしなくてはならない。

 この痛みはどんな根拠を持って、テオを苦しめる?


 考えて……、思い、至る。

 テオは、この瞬間となるまで、博士を信じようとしていたのだ。

 考えるまでも無く、博士は始めから怪しかった。なにせ、ツクモを最初にテオに会わせた人間で、しかも彼女をよく可愛がっていたのだから。


 博士が自分の研究にしか興味が無いことは周知されていて、その博士が愛着を持つのなら、ツクモは博士の研究に関わっていることは然るべきことだ。


 それでも、テオは目を背けていた。

 この決定的な段階になるまで、博士のことを無意識に庇おうとしていた。

 テオが嫌いな人間たちの一人に、テオの記憶の中で一番長く時間を共有した一人が入っていたなんて、そんなことを認めたくはなかったから。


「なにしてるんですか、ナラバ博士……」

 押し殺すような声で、呼ぶ。

 握り込んだいた掌を開くと、爪の後がくっきりと並んでいた。


 テオは、何にも見えないと嘯く子供のように、掌で目を覆った。

      


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