変化 3
リビングのソファで目覚めると同時に、ぎょっとした。
真っ赤な瞳が横からテオのことをじいっと覗いていたからだ。
「っ!」
テオは何も言えずに勢いよく起き上がり、ツクモを避けるように離れた。
心臓がばくばく鳴っている。きっともうすぐデバイスが体調を尋ねてくるはずだ、と思ったが、待てども、機械音声はテオを気遣おうとはしなかった。
違和感を感じて視線を落とすが、そこにデバイスは無かった。
そうだ。洗面所で外して、そのままになっていた。
嘔吐を繰り返したせいで身体が重く、ソファまではなんとか辿り着けたが、腹の底が沈んでいくような疲労感に負けて、そのまま眠ってしまった。
「おにいちゃん」
ツクモがテオを呼ぶ。
呼ばれて、ぞっとした。
なぜ、ツクモはここにいる?
テオはツクモをベッドに座らせてからは、何も言っていない。
患者の彼女なら、いままでの彼女なら、何も言われない限り何時間でもそこに座り続けているはずだ。
でも、ツクモは、ここにいる。
テオが眠っている間に勝手に動いて、テオが起きるまで隣で待っていた。
なにかが、彼女の中で変化したのだ。
それは、彼女がテオに制御できない存在になったことを意味する。
反吐が出るような実験のレポートを見て、彼女がどういう経緯を辿ってきたかを知り、憐憫を感じなかったとは言わない。だが、それ以上にテオは、目の前で瞬時に傷を治癒してしまった異質さへの恐怖の方が勝っていた。
そんな彼女が、同じ空間で息をするそんな化け物が、今後は好き勝手に歩き回ることになったのだ。
下唇を噛み締める。
逃げたテオを追った赤い瞳を睨め付ける。
ツクモの表情は相変わらず希薄だ。
しかし、テオは二度とその表情の少なさから彼女のことを人形のようだとは評さないだろう。
彼女の悲鳴とその涙を記憶しているから。
そう、彼女には人格がある。
怯え、痛みに悲しみ、哀願する心がある。
彼女は、人形ではない。
だからこそ、あの映像記録はあんなにもおぞましかった。
彼女の人格を徹底的に排除して扱った記録だったのだから。
テオは、少なくともそんな彼らとは、違う人間のはずだ。
「ご飯、つくるよ」
視線を外し、肩を落としてそう言った。
ツクモにはあの異常な治癒の他に、まだなにかしらの力があり、それは、テオを危険にさらす類いのものだ。実験記録からそれは明白になっている。
テオが保身を考えるのなら今からだって遅くはない、彼女を部屋から追い立てるべきだ。
分かってる、分かっているのだ。
危険なものは遠ざけておくのが、穏やかな生活を送るために遵守すべき秘訣なのだから。
そんなことは、よく分かっているのだ……。
「おにいちゃん」
彼女がまたテオのことを呼んだ。
もう、それは意味をなさない鳴き声ではなくなっている。テオのことを求める『声』だ。
深く、ため息を吐いた。
その後から、
「……なあに」
答えてやったのだ。
勘違いで無ければ、ツクモは微笑んだ。それから、ゆっくりと、確かめるような足取りでテオの元までやってきた。
それだけで何をするわけでも無かった。
ただ、テオの隣に立ってソファで目覚めたときにそうしていたように、赤い瞳でテオの顔を覗くだけだった。
「なんだよ」
「……おにいちゃん」
ツクモは、なにも要求したりはしない。
テオは流すように視線をそらして、キッチンへ向かう、……前に、デバイスを回収するために洗面所へ向かった。
ぺたりぺたりと裸足で後を従いてくるツクモが気になったが、テオは目を細めて知らんぷりをした。
改めてデバイスを腕に巻くと、窮屈さを感じた。
デバイスによる認証は生活の一部なのに、いまさらそんなことを感じるなんて、おかしな話だ。
きっとこの感覚に敏感になりすぎた人間が、都市部を離れて地方のAIサポートサービスが不完全な営みを求めるのだろう。
噂によるとバイタル管理を放棄し、クレジットはカードを準備して生活をしていると聞いたことがある。
カード、か。
クレジットを入れておくためのカードなら簡単に購入できる。
今デバイスにあるクレジットをすべてカードに入れてしまえば、あるいは……。
バカらしい。
頭を振る。
何を考えているのだ。便利な生活を捨てて、そんなことをする理由がどこにある。テオはこのマンションと保証された生活に満足している。
今さら一つ前の世代の生活などやってられるか。
本当に、バカバカしい。
テオのバイタルを感知し、デバイスが起動する。
バイタルの計測が停止していた時間が表示された後に、正しい計測のためにデバイスを外すことは推奨されないという警告文が表示された。
「うるさいな」
口に出してから、自分は何を言っているのだろうと思った。
たかがAIのガイダンスだ。
デバイスを中心にした現代的な生活では、とっくに慣れっこになっていたはずの光景だ。
そんなものに対しての不満をわざわざ口に出すなんて、どうかしている。
そんなのはまともな人間じゃない。
ぎりりと、歯を食いしばった。
なんで食いしばった?
そんなことをしてしまった意味さえ、定かにはならなかった。




