81.偶然
待ちに待ったアリーチェとカスペル前侯爵夫人の面会日。
アリエスはエルスに後を頼んで面会場所へ向かって覗き見たが、残念なことに大した情報は得られなかった。
前侯爵夫人の話の内容は愚痴ばかりだったのだ。
元夫に対しての不満、自分のことは棚に上げてロイヤが妊娠したことに対する怒り、何よりも自分に対しての社交界の面々の冷たさに怒りを爆発させていた。
そして、アリーチェやロレンゾがもっと出世した暁には、その者たちに後悔させてやると息巻いていた。
(思っていた以上に普通だったわね……)
侍女のうちの一人の態度が悪いと愚痴っているところで、アリエスはその場を去った。
少し気になることはあったが、おそらくこれ以上は収穫がないだろうと判断したのだ。
そして資料室に入り女官姿に着替えると、図書室へと向かった。
図書室の書架は書庫ほどではないが、今一つ並びが悪い。
並び替えしたい気持ちを抑え、適当な本を探し始めた。
同じように本を探しているのか、隣に男性がやってきたがかまわずにアリエスは本を取ろうと手を伸ばしたとき――。
「私が取りますよ」
少し高い位置にあったからか、隣に立った男性が声をかけてくれた。
「ありがとうございます」
「これですか?」
「その右隣をお願いします」
素直に礼を言って取ってもらうと、男性は本の題名に気付いたらしい。
アリエスに本を差し出しながら言い添える。
「この本は古いものですから、情報も古いですよ。二年ほど前に新しく書かれた本をお勧めしますが……」
「ご親切にありがとうございます。その本については私も存じておりますが、いつも貸し出しのようで、見つけられないのです」
「そうでしたか。ではもしよろしければ、私がお貸しいたしましょうか?」
親切な申し出に、アリエスは目を見開いた。
それからかすかに悩み、ひとまずの疑問を口にする。
「あの……申し遅れましたが、私はアリエス・クローヤルと申します。失礼ですが、あなたのお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「ああ、これは失礼しました。私はラリー・マンベラス。医師をしております」
「まあ、お医者様だったのですね? ですが、薬草の本をお借りしてしまってはお仕事に差し障るのではないですか?」
「大丈夫ですよ。書かれている内容については、すべてといっていいほど覚えておりますから」
「それはすごいですね」
「仕事、というのもありますが、趣味なんです」
にこにこしながらアリエスに答えるマンベラス医師は柔和な雰囲気をまとい、人好きのする好青年だった。
ロレンゾやイヤオルのように誰もが認める美青年というわけではないのだが、流れるような話し方と男性らしい低い声が耳に心地よく魅力がある。
「では、お言葉に甘えてもよろしいでしょうか?」
「もちろん。いつお渡ししましょうか? 今から部屋に取りに戻ってもかまいませんよ?」
「あ……ご親切は嬉しいのですが、私はもう戻らなければいけませんので、マンベラス先生のお時間があるときに取りに伺ってもよろしいですか?」
「それでは、明日のこの時間にここでどうでしょう?」
「わかりました。よろしくお願いします」
そろそろリクハルドがお昼寝から起きてしまう。
アリエスはマンベラス医師と約束をすると、深々と頭を下げて足早にその場を去っていった。
急ぎ本の貸出手続きを終わらせ、リクハルドの部屋に戻る。
リクハルドはまだ起きていなかったが、明日もエルスに頼んで出かけなければと考えながら、借りてきた本を部屋へと置いた。
――翌日の約束の時間。
図書室にはすでにマンベラス医師が待っていた。
「すみません。わざわざお越しいただいたのに、待たせてしまうなんて」
「いいえ。本を読んでいたので大丈夫ですよ。幸い、ここにはたくさん本がありますからね」
柔和に微笑むマンベラス医師にアリエスは笑みこそ返さなかったが、いつもの冷ややかな態度とは違った。
本を受け取ると、満足げなため息を吐いたのだ。
「ありがとうございます、マンベラス先生。大切に読ませていただきます。いつまでお借りできますか?」
「いつでもいいですよ。あと、私のことはラリーと呼んでください。先生と呼ばれるのは慣れていないので」
「……わかりました」
マンベラス医師が苦笑するように言うと、アリエスは受け入れたが、「自分も」と馴れ馴れしくはしなかった。
そのことについて気にした様子もなく、マンベラス医師――ラリーは懐中時計を取り出して時間を確認すると、再びアリエスに笑いかけた。
「この後お時間が許すなら、少し付き合っていただけませんか?」
「どちらに?」
「南庭園の奥、王妃様のお庭の手前に薬草が植えられているのはご存じですか?」
「いいえ、知りませんでした」
「では、行って実際に見てみませんか?」
「ええ、楽しそうですね」
王妃の庭の手前に薬草が植えられているのをアリエスは知っていたが、女官姿で歩いたことはなかったので知らないふりをした。
ラリーともっと話してみたかったのだ。
「――クローヤル女史が薬草について学ばれるのは、王子殿下のためでしょうか?」
「そうですね。私は少し薬草を扱えますが、本格的に学んだことはないのです。それで、大した力にはなれなくても知識だけでもあればと……。私が殿下付きの女官だと、ご存じだったのですね?」
「はい、有名ですから。とはいえ、昨日お名前を伺うまでは、どのような方かは存じ上げませんでした」
南庭園に向かいながらの会話は、お互いを探るようなもの。
ラリーがこうして親切にしてくれるのは、アリエスが王子付きの女官だからだろうと思っていた。
だがアリエスが名乗ったのは、ラリーが本を貸すと言った後だ。
とすれば、今のラリーの言葉は嘘なのか、それとも本当にただの親切な医師なのか。
「ラリーは医務局にお勤めなのですか?」
「いえ。私は医官ではありません。ですが以前は、王族専属の医師であったカーサル医師に師事しておりました。ですから、王妃様がお亡くなりになってしまったときに……」
言いかけてためらうラリーを、アリエスは訝しげに見た。
それから何も知らないふりをして問いかける。
「カーサル医師は責任を取ってお辞めになったそうですね。それでラリーも退官されたのですか?」
「いえ……」
「ひょっとして、カーサル医師だけでなくラリーも責任を追求されたのですか?」
「そういうわけではないんです。ただ怖くなって……」
「怖い? カーサル医師は何か罰を受けたのですか?」
ラリーはまずいことを言ってしまったとでもいうように顔をしかめた。
しかし、覚悟を決めたように厳しい表情で周囲を見回して小声で続ける。
「カーサル先生は……クビになったのです。それからすぐに先生は亡くなりました。心臓発作ということにされていますが、噂では先生が殺されたのではないかと……」
「まさか……」
「私も信じたくはありません。ですが、先生はとてもお元気で健康にも気を遣っていらっしゃいました。それがあんな急に……。それで怖くなった私は逃げ出したんです。臆病ですよね」
カーサル医師が退任してからすぐに亡くなったことについては、アリエスも不自然に思っていた。
とはいえ、殺されたのではないかとの噂は聞いたことがない。
自嘲するラリーに、アリエスは戸惑っているふりをしながらも首を横に振った。
「逃げることが臆病だとは思いません。誰だって、死にたくなんてありませんもの。ですが、カーサル医師が殺されたかもしれないなんて、いったい誰が……」
アリエスは同情してみせながら、それでも信じられないといった様子で答えた。
すると、ラリーは大きく息を吐き出す。
「そうですよね。こんなこと、信じられませんよね。ですが、あなたが王子殿下の筆頭女官だと知って、忠告したかったのです。殿下のために薬草を学ばれるのは素晴らしいことだとは思いますが、あまり深入りされると何かあったときに責任を取らされかねません」
「……筆頭女官ですから、責任は取るつもりです。何か、なんてことが起こらないようにするのが私の務めですが」
「そうですね。あなたは立派な方だ。私のような臆病者とは違う。それでも、どうかお気をつけください。少なくとも、いつもと違う味のものは口に入れないようにしてください。そのためにも、食べるものはこだわったほうがよろしいでしょう。余計なことかもしれませんが……」
はっきりとは言葉にしなかったが、ラリーは毒に気を付けろと伝えたいのだろう。
要するに、カーサル医師は毒殺されたと考えているのだ。
「ご心配いただき、ありがとうございます。ですが、お話を伺って、さらに薬草などについてはもっと学ばなければと思いました。私はとにかく、殿下にもしものことがあってはなりませんから」
アリエスがきっぱり答えると、ラリーは驚いたようだった。
そして優しく目を細める。
「噂どおり、あなたは本当に強い人なんですね」
「……強くありたいとは思っております」
「私も……強くなりたい。そのためにも……」
呟きながら南庭園に出たラリーは、目を細めて翼棟を見つめた。
アリエスはラリーの視線を追い、次いで周囲に意識を向けた。
南庭園にいた者たちがアリエスたちの登場に驚いているのがわかる。
アリエスがいつもの相手――ロレンゾではなく、別の男性と一緒にいるからだろう。
「なんだか、ずいぶん注目を浴びている気がしますね」
「ここには暇な人ばかり集まっていますから。すぐに注目されます」
「慣れていらっしゃるんですね?」
「面白がってはいるわ」
困惑したようなラリーだったが、アリエスの答えを聞いて噴き出した。
どうやら肩の力が抜けたようだ。
それからは多くの薬草を前にして、アリエスはラリーと有意義な時間を過ごすことができたのだった。
本日12月30日より、各電子書店さまで本作のコミカライズ作品『王宮女官の覗き見事件簿~空気読まずにあなたの秘密暴きます@大橋薫先生』の各話配信が始まりました。
大橋先生のたくましく素敵なアリエスをぜひぜひご覧になってください!
よろしくお願いいたします。