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8.噂

 

 初めの十日ほどは仕事にならなかった。

 資料を探しにきたと見せかけて、皆が夫に捨てられたアリエスを見に来たのだ。

 アリエスは同情する相手にも淡々と応じ、皆が望む悲劇を語らなかったせいか高飛車だと評価された。

 そして次第に訪れる人は減っていき、ひと月も経つ頃には落ち着いて仕事が――読書ができるようになっていた。


 アリエスにとっては楽園のような生活だったのだが、資料室は図書室と同様に本を傷めないよう常に厚いカーテンが引かれているために暗い。

 目を悪くしないためにも、アリエスは本を読むときにはカーテンを抜けて窓辺で読むようにしていた。


(あら、あれは……)


 窓辺に腰かけて古くなった本の傷んだ箇所を修繕していたアリエスは、階下を見下ろして目を凝らした。

 建物の陰に男性と一緒にいるユッタを見つけたのだ。


(いわゆる逢引きってやつね……)


 ユッタは若くて可愛いので恋人はいても当然だった。

 ただ今は仕事中のはずなので、隠れて会っているのだろう。

 あの場所は死角になっているらしく、他の窓から確認した結果、この場所からしか見えないことがわかった。

 それも今までに何度かあの場所でこそこそと誰かが話している姿を見たことがあり、不思議に思って調べたのだ。

 この資料室もアリエスが来るまでは開かずの間と言われて誰も寄りつかなかったようで、あの場所は簡単な密会の場として成立していたらしい。

 こんなに楽しい場所はないわね、とアリエスが考えていたとき、相手の男性が人目を気にしながら去っていった。

 その姿をはっきりと捉えて、アリエスは驚いた。


(……近衛騎士だわ)


 ということは家柄もかなり良いということだ。

 メイドであるユッタとの恋が許されるわけがない。

 しかもあの白い制服はかなり目立つので、逢引きなど逆に大胆である。

 それだけユッタとの時間が恋しかったのかと、まじまじと彼を観察したアリエスは顔をしかめた。

 以前、何度か戯れの恋をと声をかけてきた相手だったのだ。

 どうやら数々の女性と浮名を流しているようだが、明るくはぶりもいいせいか男女ともに人気があるらしい。

 だがそれはボレックも同様だった。

 ユッタに深入りはしないほうがいいと忠告しようかと悩み、少し様子を見ることにした。


 恋は盲目とはよく言ったもので、彼に夢中になっているなら余計なことを言っても逆効果だろう。

 障害があるほど恋心は募るらしい。

 恋をしたことがないアリエスにとっては、本から得た知識でしかないが。


 アリエスは修繕を終えた本を棚に戻すと、ぐっと背伸びした。

 大好きな仕事ではあるが、やはり暗い場所に一日中閉じこもっていては体によくない。

 それも本から得た知識であるが、そのために昼食を食べるために毎日食堂に通っているのだ。

 場所は以前ユッタから聞いており、もうここ何日も通っている。

 それが話題にもならなければ、女官長から注意されることもないのは、アリエスがメイド服を着ているからだった。


 実はメイド服もユッタを説得して融通してきてもらったのだ。

 メイド服を着てしまえば、夫に捨てられたあのアリエスとは誰も思わない。

 以前、ポルドロフ王国の社交界で幽霊伯爵夫人と囁かれたようにひっそりと過ごせた。

 それはユッタと一緒にいても同様で、皆が可愛らしいユッタに注目する。


「ユッタ、あなたもこれからお昼?」

「あ、はい」


 逢引きから戻る途中だからか、ユッタはどこか後ろめたそうであり興奮しているようだった。

 だがアリエスは気付かないふりをして一緒に向かう。

 人は疚しいことがあると饒舌になるものなので、ユッタから何か彼に関して話題を振ってくれないかとアリエスは待った。

 すると、しばらくの沈黙ののち、ユッタがそわそわし始める。


「どうかしたの?」

「いえ、その……アリエス様はすごいですよね」

「何が?」

「それはその……噂が……気にならないのですか? 悪い噂を流されて……」

「ああ、あれね。悪い噂というより事実だから。否定しても余計に喜ぶだけだし、適当にあしらっておけば、そのうちみんな飽きるもの。そして新しい噂に飛びつくのよ。実際、そうでしょう?」


 アリエスの噂も今では旬を過ぎているのだ。

 おそらくアリエスが人前に姿を現せばまた噂を思い出すのかもしれないが、メイド服姿のアリエスを皆が普通に通り過ぎていく。


「それもそうですね……。最近の噂といえば、国王陛下にこっぴどく振られた侯爵令嬢の話ばかり皆がしています」

「それはお気の毒ね」

「アリエス様もそう思われます? 女性に恥をかかせるなんて、陛下にはお心がないってお噂は本当なんですよ」

「あら、私がお気の毒に思ったのは陛下のほうよ」

「え? どうしてですか!?」


 アリエスの言い分にあまりに驚きすぎて、ユッタは大声を出した。

 それからすぐに自分の口を右手で塞ぐ。

 国王陛下の噂をしていたと知られたら、どんな罰を受けるかわからないので慎重にしなければならないのだ。

 もちろんここは使用人たちの棟なので、皆が貴族たちのことを好き好きに噂はしている。

 しかし、誰が聞いているかわからないので大声ではしないのが原則だった。


「どうしてそう思われるんですか?」


 ユッタから小声で改めて訊かれ、アリエスは無表情に首を傾げた。

 どう答えればうまく伝わるか考える。


「私も噂でしか存じ上げないけれど、陛下には再婚なさるお気持ちがないのでしょう? それなのに周囲からせっつかれて、断ればお心がないと責められるなんて、お気の毒だわ」

「で、ですが、女性に恥をかかせるのはやり過ぎではないですか?」

「その侯爵令嬢はどのような恥をかかされたのかしら?」

「え? ……さあ?」

「恥をかかせているのは、こうして噂している私たちだと思うわ。だからもうやめましょう?」

「そ、そうですね」


 たいていの噂には中身がない。

 事実の裏付けもなく、ただ人から人へと、時には外側だけ大きく膨らんで伝えられていくのだ。

 アリエスは噂にずいぶん苦しめられたが、本音を言えば他人の噂を聞くのは好きだった。

 正確には、噂の真相――中身を確かめることにわくわくしてしまう。


 それなのに今のは自分を棚に上げて偉そうだったなと、しょんぼりするユッタを見て反省した。

 そこに背後から押し殺した笑い声が聞こえてくる。

 驚いて振り向けば、衛兵のジークがいた。


「ジーク? どうしてこんなところにいるの?」

「それはお互い様だろう。俺はここの食堂のほうが気に入ってるんだよ。それで時々こっちに来るんだ」

「そうなの? 逆に兵舎の食堂がどんなものか気になるわね」

「ボリューム満点で美味いが、俺くらいの年になると少々腹にもたれるんだよ」

「ああ、そうね」


 元夫のボレックもこの六年で食の好みがかなり変わったようで、料理人にあれこれと文句を言っていた。

 ジークも同じくらいの年のようなので、若さと体力勝負的な食事は合わないのだろう。


「まだ腹は出てないぞ」

「それは気付かなかったわ」


 じろじろ見ていたつもりはないが、アリエスの視線ににやりと笑うと並んで歩き始める。

 どうやら一緒に食堂に行くらしい。

 ユッタから話を聞ければと思っていたが今は無理そうだ。

 またの機会でいいかとアリエスは早々に諦めて、食堂へと向かった。




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