75.家族
昨日のうちに、今回の発表の打ち合わせはテブラン公爵と行っているはずだった。
その話し合いで、公爵が勝手にポルドロフ王家側と契約を交わしていたことを国王が責めたのかどうかはわからない。
だが多少の誤算はあっても、この発表は公爵の満足いくものだったのだろう。
イレーンも純粋に祝福しているように見えた。
「マルケス夫人としては、ライバルが減ったんだから、そりゃ嬉しいわよね」
「ところが、一度は消えたと思ったライバルが現れたってわけね?」
「まさか、アリーチェ様を陛下が誘われるとは思わなかったわ」
「ひょっとして、以前こっぴどく振ったお詫びかもよ?」
「それとも、マルケス夫人とのことを誤解しないようにと、私たちに示されているとか?」
あちらこちらで囁かれる噂話を耳にしながら、アリエスは会場内を回っていた。
やはりこれほど楽しいことはない。
アリエスは多くの人たちに祝いの言葉をかけられているメルシアを覗き見てふと違和感を覚えた。
初めてその姿を目にしたばかりなので、はっきり何かがおかしいとは判断はできない。
しかし何かが不自然で、アリエスは気をつけながらも近付いた。
人々の間からかすかに見えるメルシアを別の角度からも観察して、アリエスは目を見開いた。
(あれはきっと……)
メルシアの仕草から次の行動を予想して急ぎ会場から出ると、アリエスは向かいの使用人待機場に入り、もたもたと仕事をしているふりをしながら待った。
ここからは廊下の様子がよく見える。
使用人が上流階級の者たちにとって透明人間であるように、使用人もまた自分の職務以外については見ないふりをするのだ。
そのため、会場からメルシアが兄のアストルを伴って出てきても、使用人たちはちらりと確認しただけで気にも留めなかった。
これが赤の他人――パートナー以外の男女なら使用人たちの口から仕える主人へと伝わり噂になる。
それでもアリエスは違和感の正体を掴むために、二人の後をそっとつけた。
警備の者は庭や王宮の出入口に集中しており、廊下は基本的に持ち場以外にはいない。
もしメルシアの気分が悪いのなら、侍女が呼ばれるだろうがそれもなく、二人は会場近くの無人の部屋へと入っていった。
それだけでアリエスの胸は高鳴った。
パーティーの楽しみといえば、男女の密会である。
そのため、今夜も会場近くの個室は書斎だろうが応接室だろうが、会談の場として用意された多くの部屋でアリエスは覗き見ができるだろうと期待していた。
もちろん密談も。
そんなわけで、アリエスは以前から目つけていた各部屋の覗きに最適な場所の扉や窓の鍵を前もって開錠してから給仕係としてパーティーに参加していたのだ。
それでも今夜は規模が大きく、多くの目があるためにそれほどの収穫はないだろうと思っていた。
しかし、メルシアと兄のアストルがわざわざ場所を移してまでする会話には期待せずにはいられない。
さらに幸運なことに、二人が入った部屋は隣に使用人のための小さな控えの間があるのだ。
(今日はお母様と再会するという不運に見舞われたけれど、こんな幸運が待っていたのね)
アリエスは自分に都合よく考え、存在すら信じていない神ではなく、その部屋を選んだ二人に感謝した。
そして控えの間に入ると、邪魔されないように今度は施錠する。
「――なんて、まずいよ、メルシア!」
「まあ、お兄様。この婚約に反対するなんて、やっぱり私と別れたくないのね?」
「そうじゃない! いや……君と離れるのはその、寂しいが、問題はそうじゃないだろ? 本当にポルドロフの王太子と結婚することになったらどうするつもりなんだ? 初夜の床で誤魔化しきれると思うのか!?」
「大きな声を出さないで、お兄様。心配しなくても大丈夫だから」
聞こえてきたのは、焦ったアストルと落ち着き払ったメルシアの声だった。
内容を素直に受け取れば、妹がすでに純潔でないことを知っていて、仲の良い兄が心配しているように思えるが、やはり何か不自然である。
アリエスは心の中でどうぞ大きな声で話してちょうだいと願いながら、二人の会話に集中した。
「メルシア、今回ばかりはお前やテブラン公爵家だけの問題ではないんだ。一歩間違えれば戦争になる。ここは恥を忍んで陛下に打ち明けるべきだ」
「もう無理よ、お兄様。今夜すでに発表してしまったんだもの。それに陛下はどうだか知らないけれど、お父様は知っているのよ」
「まさかそんな!」
善良な兄の言葉に耳を貸そうとしない妹、とアリエスが思いかけたそのとき。
テブラン公爵が「知っている」と聞いたアストルの顔は驚きよりも恐怖に青ざめた。
これはきっと何かある。
アリエスは自分の直感が当たっていたようだと、続きをワクワクしながら待った。
「お兄様がなぜ急にあの女と結婚させられて、遠くの領地管理を命じられたと思うの? なぜ私が悼んでもいないお姉様のために三年も領地に閉じ込められたと思うの? お父様に私たちの関係がばれてしまったからに決まっているじゃない」
思わず声を漏らしそうになってしまったアリエスは、慌てて口を両手で塞いだ。
興奮のあまり鼓動が早くなり、二人の会話が上手く聞き取れそうにない。
どうにかパニックになったときの呼吸法を繰り返す。
メルシアの言葉から察するに、この二人は兄妹でありながら、男女の関係にあったということだ。
要するに肉体関係があったのだろう。
さすがにアリエスも衝撃的な内容すぎて、すぐには処理できないでいた。
「メルシア、頼むから二度とそのことは言わないでくれ」
「どうして? 私たちは籍だけなら兄妹だけれど、いっさい血の繋がりはないんだもの。おかしくなんてないわ。お兄様は私のことを愛しているって言ってくださったのに、嘘だったのね。だから結婚だってしてしまえたのよ」
「父上のご命令に逆らえるわけないだろう? それに、本当なら私はただの庶子にしかすぎないんだから」
「だけどお父様の子には間違いないわ。たとえ愛人に産ませたとしても、お顔はよく似ているんだから。それに腹を立てたお母様は私を産んだんだから、おかしいわよね」
「ちっともおかしくなんてないよ、メルシア。君は公爵夫人そっくりだよ。私が結婚した腹いせに、多くの男たちと関係を持ったんだから」
「お兄様に私を責める資格はないわ」
「……ああ、そうだな」
ようやく落ち着いてきたアリエスは、一言一句たりとも逃すものかと全神経を集中させた。
今まで様々な秘密を知ってきたが、これ以上のものはこの先もないだろう。
ぐったりした様子でソファに座り、顔を覆う兄を慰めるように、メルシアがその隣りへと席を移した。
それから抱きつく妹を押しのけることをしないのは、アストルにそれだけの気力がないのか、いつものことで慣れているからなのだろうか。
(まあ、今誰かに見られても、妹が兄に甘えていたと思うだけね)
遠くへ嫁ぐ妹を心配する兄を慰めているなど、気丈だとされるメルシアらしいだろう。
実際、アリエスが想像していたメルシアと違って、兄を抱きしめる姿からは本当に愛情が感じられた。
素晴らしい兄妹愛ではあるが、アストルは顔を覆ったまま震えている。
「それにしたって、まさか父上に知られていたなんて……」
「お姉様よ」
「え?」
「どうやって知ったのか、私たちのことをお父様にばらしたのはお姉様なの。だから私、死んでも許さないわ」
それは『メルシアが死んでも』ではなく、『姉である王妃が亡くなった今も許さない』と言っているのだ。
アリエスは今一つ確信を持てなかった、王妃に毒を盛ったメルシアの動機をはっきり理解した。
メルシアは姉を嫌っていたとか、王妃の座を妬んだなどといったものよりも、自分の恋路を邪魔したことが許せなかったのだ。
あれこれと大人が考えるよりもずっと、あまりに子どもらしく、幼稚で単純な動機だった。
今日はアリエスの未熟さを様々な形で痛感させられる日のようだ。
アリエスは静かに深呼吸を繰り返して、感情の波を抑えた。
「姉さんのことはもうどうでもいいよ。それよりも、父上が知っていたなら、なぜこの婚約話を進めたんだ? メルシアもどうするつもりなんだ?」
「どうもしないわ」
「だが事が露見したら間違いなく、テブラン公爵家は責任を取らされる! 最悪の場合、全員処刑されるかもしれないんだぞ!?」
アストルの言葉に、アリエスは苛々した。
心配しているのはメルシアの身でも、マーデン王国の行く末でもなく、テブラン公爵家の――自分のことでしかない。
男はどうして下半身で行動してから、後悔するのだろう。
あの今にもテーブルにぶつけそうなほどうなだれた頭は飾りなのかと見ていると、またメルシアが驚くべき発言をした。
「お父様がおっしゃるには、初夜なんて迎えなくていいそうよ。要するに王太子と寝なくていいってこと。ポルドロフ側との内密の契約書にもしっかり書いてあるのですって。しかも私は別の男性と関係を持ってもかまわないって、最高じゃない?」
「何だってそんな都合のいい契約が? もしお前が妊娠でもしたらどうするんだ?」
「そんなヘマはしないわよ。今までだって、大丈夫だったんだから」
「しかし――」
「ねえ、キスして」
「メルシア、何を言うんだ!」
「これで最後よ。私が愛しているのはお兄様だけだもの。だから、ね? お願い」
「メルシア……」
あれだけ自分の保身を考えていたのに、結局アストルは下半身に主導権を渡したようだ。
しかも早い。
時間がなかったからか、元からなのか、手早くすませて身支度を整えると部屋から出ていった。
アリエスはその姿を見送ると、隣の部屋でも始まっている密会を覗くために移動した。
それでも頭の中では、メルシアの言葉を整理していた。
アストルの言うように、そんなに都合のいい契約なんてあり得ない。
アリエスが予想するポルドロフ側の思惑を、メルシアは知らないだけなのだろう。
だがテブラン公爵は知っているはずだ。
でなければ、公爵だって疑うだろう。
(要するに、メルシア様は父親に売られたのね)
血の繋がりはなくても、一応は娘として十八年育ててきたのだ。
だが実の娘でも、比喩でなく売ることができるのだから親の愛情など幻想に過ぎない。
とにかく、床入りをしなくていいという契約なら、あの噂を流しても効果がなかったのも当然だった。
アリエスは今夜手に入れた新情報に浮かれる気持ちを抑えて、自室へと戻っていった。