63.隠し扉
「エルス、このことはあなたにだけ教えることよ。フロリスも知らないことだから秘密にしておいてね」
「かしこまりました」
エルスがアリエス専属のメイドとしてやってきてから八日。
この王太子専用の居室とアリエスの部屋の仕事にも慣れてきたころだった。
もちろんアリエス以外の女官には嫌がらせをされたりしているようだが、エルスは何しろあのハストリフ伯爵家で働いていたのだ。
女官たちの扱いも慣れたもので、フロリスとは上手くいっていた。
今、フロリスは資料室に行っており、リクハルドはお昼寝をしている。
そのため、他の女官たちは自室で休憩していた。
「この書斎がほとんど掃除されていなかったことは気づいたでしょう?」
「はい。目に付く場所だけ簡単に埃を払っていた程度でした」
「ええ。だから他の女官たちは知らないはずよ。埃は痕跡を残してしまうからね」
そう言いながら、アリエスは壁一面に並んだ書架の下から三段目の本を二冊取り出した。
そこはエルスが他とは違って埃がこすれた跡があるなと思った場所だった。
だが単純に、その本を取り出しただけなのだろうと気にも留めていなかったのだ。
「この奥の壁に小さな窪みがあるから、それを押し下げるの」
アリエスが書架に並んだ本の間に片手を突っ込み説明すると同時に、隣の書架の棚が奥へと引っ込んで人一人通れる隙間が開いた。
噂には聞いたことがあったが、仕掛け扉を見るのが初めてのエルスはぽかんと口を開けた。
「ね、だから本当は常にこの書斎は隅々まで掃除しておかなければいけないの」
「……承知いたしました」
エルスが納得して頷くと、アリエスは隙間に体を入れて手招きした。
おそるおそるエルスが隙間に入ると、そこは小部屋になっていて、アリエスはランプに明かりを灯していた。
隙間から差し込む頼りない光から、ぱあっと小部屋が明るくなる。
「その扉を閉めてみて。鍵があるでしょう?」
「はい」
「その鍵を掛けると、書斎からは開けられなくなるから今は掛けないでね。それでこの部屋にはもう一つ扉があって……ここよ」
アリエスは手に持ったランプをかざして四方に並べられた棚の陰を照らした。
わかりにくいが確かに扉がある。
「ついてきて」
「はい」
扉を開けたアリエスに従い、狭い通路を進む。
アリエスやエルスでどうにか通れるくらいなので、成人男性が通るにはかなり苦労するだろう。
鎧を纏っていたらまず無理である。
「さあ、出口よ」
そう言ってアリエスが扉を開けると、見慣れた場所へと出た。
そこはアリエスの――筆頭女官の衣装部屋であり、開けた扉は姿見だった。
呆気に取られるエルスに、アリエスが淡々と説明する。
「これはここではただの鏡よ。要するに、こちらからは一切開けることができないの。この衣装部屋は私の部屋へも浴室へも、さらにはあなたの部屋にも続いているわ。もし何かがあったとき、あの部屋に閉じ籠もるか、ここから別の部屋へと脱出することができるってわけ。あの部屋には数日分の保存食を置いてあるけれど、水は毎日取り替えないとダメなのよね。まあ、それは私がやるわ。あの小部屋のこと、気付いた?」
アリエスの質問が小部屋の存在でないことはすぐにわかった。
エルスは慎重に頷いて答える。
「あの棚には私がお持ちした薬品がありました。あのカビのようなものも」
「ええ、そうなの。あそこを調合室にしようと思っているのよ。最適な場所でしょう?」
「……ここでも、やはりアリエス様のお薬が必要となるのですね?」
「ええ、おそらくこれからね」
アリエスがボレックとの結婚生活に疲れ、全てを諦めかけたその頃。
ぼんやりしたまま分け入った領館近くの森で、ある人物に出会ったのだ。
それがアリエスの人生を大きく変えた。
かなり高齢の老婆は自分を魔女と名乗り、殴られた痕の残るアリエスの体を治療をしてくれた。
それ以来、アリエスはその魔女に――本当は薬師なのだが――様々な薬草などの知識を教えてもらったのだ。
それが避妊薬や、今話題になっている病の薬でもある。
「それでは私は、この小部屋の存在が絶対に知られないよう、精一杯努めさせていただきます」
「ええ。ありがとう、エルス」
アリエスにとっては、抜け道よりもあの調合室のほうが重要な秘密であった。
おそらく誰かに知られれば、怪しげな薬を精製していたとして罰せられるだろう。
最悪の場合、処刑も免れない。
それだけの秘密であるが、エルスに隠しても仕方ないのだ。
そもそも今回、伯爵家に残していた薬品や薬草などを持ってきてもらったのだから。
それはボレックや義母に隠していたもので、執事のヤーコフがきちんと管理してくれていたのである。
アリエスは王宮にやってきてからずっと、どこで調合を行うか悩んでいた。
自室には膨大な薬草などを隠して置く場所はなく、資料室や書庫も利用者は少なくてもゼロではなかったからだ。
覗き見と探索がてら、王宮をあれこれと見て回ったが、やはり最適な場所を見つけることはできなかった。
女官長の座を奪うことを一時的に考えたのも、調合部屋を確保するためというのもあった。
だが部屋は確保できても、時間が確保できない。
その他、色々と面倒くさい。
だから同じ面倒くさくても、傲慢な女官たちを相手にするより、素直なリクハルドを相手にするほうを選んだのだが……。
もちろんテブラン公爵の邪魔をする目的も大きかった。
だがまさか、その見返りにこんなに素晴らしい秘密の小部屋を手に入れることができるとは思ってもいなかったのだ。
(これはきっと、日頃の行いの成果ね)
あの場所を見つけたのは書架の本を一つ一つ確認していたときだった。
資料室や書庫とは違い、きちんと整理された本の並びに喜んでいたとき、あの二冊だけ不自然なことに気付いたのだ。
おそらく以前のこの部屋の主――現国王は知っているだろう。
古参の近衛騎士も何人かは知っているかもしれない。
しかし、リクハルドはまだ知らされていないようだ。
(まあ、秘密が守れないことは確かだものね……)
もちろんムランド夫人も知らなかっただろう。
でなければ、あのように埃を積もらせておくはずがない。
国王は五歳まで我が子に会わないらしいので、それまであの部屋は封印したままにしておくつもりだったようだ。
それでもせめて、あの場所を――非常時の逃走場所を知る者を身近に配置していなかったのは怠慢である。
(とはいえ、あの人たちではねえ……)
ムランド夫人に知らせれば必ずテブラン公爵に漏れてしまう。
さらには、リクハルドの護衛の中にも密偵が潜んでいる可能性が大きい。
国王はリクハルドがテブラン公爵の孫である事実に頼るしかなかったのだろう。
そしてこの三年間、着々と信頼できる味方を増やし、力をつけてきたのだ。
あの日記を読まなければ、それが最善だったと思えた。
王妃が殺されたかもしれないと疑っていながらも、先々代カスペル侯爵が国王に何も言わなかったのは、自身の身の安全を第一にしてほしかったからだ。
それが病に蝕まれ限界だった先々代侯爵の唯一の選択だったのだろう。
(何も間違っていない。だけど……)
エルスが仕事に戻り、昼寝をするリクハルドの枕元に座ったアリエスは手に持った先々代侯爵の日記を握りしめた。
面倒くさいことは嫌いだ。
だからもう自由に、好きに生きていこうと決めていた。
アリエスは安心しきって眠るリクハルドを見つめた。
先々代侯爵はこの幼い子を切り捨てたも同然なのだ。
政治的には仕方ない。
だがいつもそうして犠牲になるのは女性や子供、弱者ばかり。
アリエスはもう自分を犠牲にするのはやめようと、ボレックに捨てられたときに誓った。
それに、すべての女性や子供が弱いとは限らない。
一部ではその弱さを盾に、強かに生きている者もいる。
名宰相と名高い先々代カスペル侯爵でさえ、成し得なかったことをするのはきっと楽しいだろう。
アリエスはそっとリクハルドの頭を撫でると立ち上がった。
それから自室に戻ると日記を大切にしまい、書物机に向かう。
どうせなら最高に楽しいことをしようと、アリエスは手紙を書き始めたのだった。