62.恩人
お久しぶりです。
完結まで更新は控えるつもりでしたが、ある程度まとまったらその度に更新することにしました。
お待ちくださっている皆さまに励まされてます。
ありがとうございます。
今回は1週間ほど毎朝6時に更新します。
よろしくお願いします。
「奥様……いえ、クローヤル女史、このたびは助けていただき、本当にありがとうございました」
「何を言っているの、エルス。あなたが六年の間、私を助け支えてくれたんだもの。これは当然のことよ」
マニエル夫人が退室し二人きりになると、エルスは改めて頭を下げた。
アリエスは首を横に振って、エルスの手を握る。
今、アリエスが生きていられるのはエルスのおかげといっても過言ではないのだ。
「それにしても、本当にそれほど酷いの?」
「はい。古参の使用人たちの多くが辞め、今は新しい使用人ばかりでヤーコフさんも困っておられます」
「ヤーコフも辞めてしまえばいいのにね。責任感の強い人だから……」
「はい……」
アリエスはハリストフ伯爵家でよくしてくれた使用人たちのことに思いを寄せ、大きくため息を吐いた。
ヤーコフへの手紙には、ヤーコフ自身も誘ったのだが断られてしまっていた。
おそらく彼は最後までハリストフ伯爵家に尽くすのだろう。
惜しい気持ちも強いが、一方ではまだ情報源が残ってくれていることに喜んでいる気持ちもあった。
「それで、新しい奥様はどうされたの?」
「奥様が――いえ、クローヤル女史が送ってくださった煎じ薬をお飲みになって快方に向かわれ、今は旦那様と離縁されてご自身の財産であったお屋敷で静養されていらっしゃいます」
「そう、それはよかったわ。あと、私のことはアリエスと呼んでくれていいわ。もう一人の専属メイドも後で紹介するけれど、彼女もそう呼ぶから」
「かしこまりました、アリエス様」
エルスはアリエスの言葉ににっこり微笑んだ。
かなりやつれてはいるが、笑顔は昔のままである。
「お子様はどうされているの?」
「それが……お生まれになったお子様は残念ながらお亡くなりになってしまいました」
「原因は?」
「それは……」
エルスが口ごもったことで原因を察したアリエスはもう何も言わなかった。
ほんのわずかに目を閉じ、また淡々と質問を始める。
「もう一人のお子様は元気なの?」
「はい。噂ではありますが、お元気だそうです」
「お二人が離縁されたのはお二人のお子様が亡くなられたから?」
「いえ、お産まれになったのがお体が弱いお嬢様でしたので、奥様のご病気のこともあって、旦那様が娘などいらないと……。大奥様も女腹の嫁はいらないとおっしゃって……」
エルスの返答を聞いて、アリエスは鼻を鳴らした。
今までエルスの前でこのような態度を取ったことはないが、あまりに許せなかったのだ。
「本当に毒入りスープを飲ませればよかったわ」
「はい?」
「いいえ、何でもないの」
思わず本音が漏れ出たが、エルスはよく聞こえなかったらしい。
ボレックと結婚していた間、何度殺してしまおうかと考えたかわからない。
五年も過ぎる頃は完全犯罪をする自信もあった。
ずっと調べてもいた。
それでもその一線を越えることだけはできなかったのだ。
もし本当に殺人に手を染めていたなら、今頃はどんな気持ちだったのだろうか。
ふっとそんなことを考え、アリエスはきっと後悔はしなかったなと思えた。
だが自ら手を汚すことはリスクが高い。
今さら世に蔓延る倫理観はどうでもいいが、自由に生きるためには我慢も必要なのだ。
(ずいぶんな矛盾ね……)
アリエスにとって、死ねばいいのにと思っている人間は何人かいる。
その人物に対して何か仕掛けようとは思っていないが、死に瀕し苦しんでいたとすれば、間違いなく指さして高らかに笑ってしまうだろう。
なんと意地の悪い人間になってしまったのだと思いつつも、アリエスはそんな自分が気に入っていた。
「それではエルス、今日からはこの部屋を使ってちょうだい。聞いたと思うけど、私は今、王太子殿下の筆頭女官として働いているから、落ち着いたら殿下にも紹介するわ」
「そんな! 私のようなものが王太子殿下にお目通りするなど畏れ多いことでございます!」
アリエスの部屋の隣にある侍女用の小部屋に案内すると、エルスは嬉しそうにお礼を言った。
それを聞き流して続けたアリエスの言葉を聞いた途端、エルスは顔色を悪くして訴えた。
それは当然のことであり、アリエスはゆっくり頷いた。
「エルス、確かにあなたの言う通りよ。だけどあなたには殿下の居室の掃除も担当してもらうから、ひょっとして殿下と顔を合わせることになってしまうかもしれないでしょう?」
「そのような失敗は……」
使用人は存在しないもの。
それが貴族の常識であり、王族となればなおさらだった。
間違って姿を見せようものなら、罰を受けることもあるのだ。
「ちがうのよ、エルス。あなたが完璧な仕事をしてくれるのはわかっているわ。私はあなたを信頼している。だからあなたのことを殿下が覚えてくださるようにしたいの」
「それはいったいどういう……?」
「これから話すことは、あなたに無理をさせてしまうことよ。それでもお願いしたいことがあるの」
いつもの感情のない言葉とは違い、アリエスは申し訳なさそうに告げた。
もちろん演技ではない。
エルスはまだ弱かった頃のアリエスを陰ながら助けてくれていた人物なのだ。
「私は……私の母はアリエス様のおかげで医師に診てもらうこともでき、患いながらもできるだけ苦しまないで生きることができました。私の肉親は母だけでしたから……。今回もこのように助けていただいて、ご恩をお返しできるなら何でもやります」
にっこり笑うエルスを見て、アリエスもどうにか微笑んだ。
恩があるのはアリエスのほうだが、その恩人にこれから残酷なお願いをするのだ。
「ありがとう、エルス。あなた、恋人はいないの?」
「おりましたらここには来ておりませんよ」
「そう……そうよね。それがわかっていて訊ねた私は意地が悪いわよね。それにお母様を亡くされたあなたにはもう近親者もいない。要するに、人質となる弱味はいないってことよね?」
「……私は何をすればよいのですか? アリエス様の盾となればよいのですか?」
慈悲も何もないアリエスに、エルスは気を悪くした様子はない。
それどころか何かを察して自分を犠牲にしようとまでしている。
「エルス、盾となるのは私のためではないわ。王太子殿下の――リクハルド殿下のために命をかけてほしいの」