61.新人
「これをどうぞ。侯爵に許可はいただいているわ」
「すまない、助かるよ。だが採点表を見る気分だな」
アリエスが稽古場の見学スペースの隅で立っていると、背後からジークが現れた。
驚きもせずにアリエスが日記を渡すと、ジークは苦笑しながら受け取る。
その日記はリクハルドが生まれる少し前からの日付で、王妃が亡くなった数か月後まで書かれていたもの。
王妃が病ではなく、殺されたのだとアリエスが確信を持った記述のある時期のものだった。
「そういや、さっき公爵が会いにいったらしいな。殿下は喜ばれたか?」
「よくわかっていらっしゃらなかったようよ」
「そうだろうな。で、アリエスは大丈夫だったのか?」
その問いにアリエスは眉をひそめてジークを見た。
ジークは本気で心配しているらしい。
「……お金が手に入りそうだわ」
「受け取るつもりか?」
「もらえるものはもらわないと」
「おいおい。ついこの間、横領罪で多くの者が告発されたのを覚えていないのか? しかもその不正を曝いたのは誰だか知ってるか?」
「横領は罪よね」
「賄賂もだろ」
「便宜を図れば賄賂になるかもしれないけれど、ただの金品の受け渡しは罪ではないわ」
前回の事件で問題になったのは、金品を贈った先代カスペル侯爵のお金の出所である。
実際に受け取った側は何かの便宜を図ったわけではないので、弁済しただけで罪に問われることはなかったのだ。
「受け取るだけですむと思うのか?」
「さあ、どうかしら。公爵にとってはそれどころではなくなるかもしれないわね」
「あまり無茶をするなよ。ヘンリーがぼやいていたぞ」
「無茶をするのは私ではないわ。ヘンリーさんよ」
「それもそうだな。では、あまり無茶振りするなよ」
「できないことを求めたりはしないわ」
アリエスは懸命に剣を振るうリクハルドを見つめたまま淡々と答えた。
ジークは諦めたようにため息を吐く。
「あまり一人で頑張りすぎるなよ」
「頑張る? 楽しんでいるだけですわ」
「……それにしてももう少し他人を頼れよ」
「十分だと思いますが?」
「お前のは頼っているんじゃない、利用しているんだよ」
「違いがわかりません」
そこまで答えて、アリエスは振り返ってジークを見つめた。
そのまなざしはきつく、ジークはわずかに怯んだ。
「何だ?」
「先ほどからあなたは『あれをするなこれをするな』と命令ばかりですね。あなたと私には今、何の関係もありません。ですからこれ以上の口出しは無用です」
「だが……いや、そうだな」
もちろんジークは命令することはできる。
しかしそれをしてしまうと、アリエスとの関係は壊れてしまうだろう。
ただ素直にアリエスが心配なのだと告げても、必要ないと拒まれてしまうことも間違いなかった。
アリエスがガイウスに託した手紙はジーク宛てのものだった。
その手紙を受け取ったとき、かすかに気持ちが浮つき、ジーク自身驚き自覚したのだ。
たぶんこれが恋というものなのだろう。
アリエスに告げれば鼻で笑われ、錯覚だの、気の迷いだのと言われるに違いない。
実際、ジークもそんな気がしている。
これが初恋だとしたら、なぜその相手がアリエスなのかと自分の趣味を疑いたかった。
だがたった今、もう用件は終わっているのに離れがたくだらだらとこの場にとどまっている。
「……ここひと月あまりでずいぶん上達したな」
「殿下のことはきちんと見守られているのですね」
「きちんとではないな。今までは報告を受けているだけだった」
「報告だけで上達したかどうかがわかるのですか?」
「そりゃ、それぐらいは剣を扱える者ならわかるだろう。特にあの年頃の成長は目覚ましいからな。まだ四歳ではあるが、剣筋もいいし、親に似て才能があるんじゃないか?」
「そうですか」
リクハルドの話になると、アリエスはほんのり顔を輝かせた。
だが最後の一文でいつもの無表情に戻る。
ジークは笑いを堪えながら陰に潜んでいる者をちらりと見て、休息時間の終わりを悟った。
「それじゃ、またな」
「……あまりご無理をなさいませんように」
「今までにないほどやる気に満ちているよ」
思わぬ言葉をアリエスから聞けて、ジークは満足げに笑って去っていった。
当然アリエスはリクハルドから目を離すことなく見送りはしない。
同時に陰に潜んでいる者たちが数名姿を消したが、この場でそのことに気付いたのは近衛隊長と他数名。
隊長は鍛錬している騎士たちをちらりと見て、もっと厳しくしなければならないなと考えていた。
それもジークがこの場に現れたためである。
陰に潜んでいる者たちについてはさすがにアリエスも気付いていなかったが、リクハルドの警備が厳しくなっていることは理解していた。
ただそれが自分も対象であることは知らないでいる。
やがてリクハルドの稽古が終わり部屋に戻ると、女官長補佐のマニエル夫人がアリエスの自室で待っていると聞かされた。
「マニエル夫人、お待たせして申し訳ございません。お久しぶりでございます」
「同じ王宮で働いているのに、本当に久しぶりね。待っている間は美味しいお茶をいただいていたし、この子にある程度のことを説明できたから気にしないでいいのよ」
リクハルドを他の女官に任せてからアリエスは自室に入り、マニエル夫人に挨拶をした。
マニエル夫人は気にしていないことを言葉と手ぶりで表す。
そしてもう一人、新人メイドらしき人物の紹介を始めた。
「あなたには以前からもう一人専属メイドをつけようと思っていたのよ。立場的にも必要かと思ってね。だからあなたからの要請はちょうどよかったの。この子の紹介状も申し分ないし……。まあ、普通は外国籍の人間を王宮で雇ったりはしないのだけれど……しかもこんな要職に近い立場に置くなんてね。だけど、紹介状どころかとんでもない方からの推薦状を二通も持っているんですもの。雇わないわけにはいかないでしょう?」
「ありがとうございます」
「まったく……。あなたがこれから何をするのか、楽しみで仕方ないわ」
そう言いながら、マニエル夫人は笑っていた。
夫人の背後に控えるように立っている新人メイドも緊張しつつも微笑んでいる。
「わざわざ紹介する必要もないでしょうけれど……この子はエルス。前職はポルドロフ王国のハリストフ伯爵家で奥様付きのメイドをしていたそうよ」
「エルスでございます。奥様――いえ、クローヤル女史、これからよろしくお願いいたします」
「よろしく、エルス。わからないことは何でも遠慮なく聞いてちょうだいね」