60.対面
「リクハルド王子殿下、この爺を覚えていらっしゃいますか?」
驚いた様子で目を丸くするリクハルドの傍で膝をついたまま、アリエスは「覚えているわけないでしょう」と内心で突っ込んでいた。
テブラン公爵が領地に引っ込んだのが三年前、殿下はまだ一歳だったのだ。
「……殿下、この方はテブラン公爵閣下であられます。殿下のお爺様なのですよ」
「おじいさま?」
「はい。爺でございます。昔はお爺とお呼びくださっていたのですぞ」
「……おじい?」
「これもあり得ないな」とアリエスは思いながら、リクハルドを見守った。
アリエスが聞いた話ではリクハルドが生まれた当時もたまに顔を見に来る程度で、腕に抱くことさえなかったらしい。
畏れ多いという理由も考えられるが、公爵にとってリクハルドは単に駒の一つでしかないのだろう。
他の女官たちは感動の再会を目の当たりにして、涙ぐんでいる者までいる。
その姿を見てアリエスは余計に白けた気分になっていた。
それでもここで態度に出すわけにはいかない。
膝をついて両手を広げている公爵の許へ行くよう、リクハルドの背中をこっそり押した。
「おお、爺に懐いてくれますか。よいお子にお育ちですな」
リクハルドは戸惑ったまま公爵に抱きしめられている。
この警戒心のなさはアリエスの頭痛の種であった。
それなのに自分に懐いていると勘違いし、「よいお子」などと言う公爵の吞気さに呆れていた。
またリクハルドが何でも素直にアリエスに従うことも問題である。
このまま上手くアリエスが育てることができれば、国政はアリエスの思うまま。
アリエスに限らないが、このことに周囲はもっと危機感を覚えるべきなのだ。
地位、身分、権力は便利なものでもあるが、面倒くさいことこの上ない。
アリエスが面白おかしく生きるためにはたくさんのお金と好奇心を邪魔されない程度の地位さえあればいいのだから。
さて、どうやってこの勘違いジジイを失脚させようかと、アリエスは感動の再会を冷ややかに見ていた。
そのとき公爵が鋭い視線をアリエスに向けた。
何を言われるかとアリエスは身構えたが、公爵はふっと笑みを浮かべる。
「そなたがアリエス・クローヤルか?」
「はい、閣下。ご挨拶が遅くなり、大変申し訳ございません」
公爵はリクハルドを別の女官に託し、手振りで下がるように指示を出した。
リクハルドはアリエスと離れることで不安そうではあったが、素直に馴染みの女官についていく。
「よいよい。そう畏まらずともよい。そなたには感謝しておるのだ」
「殿下はとても素晴らしいお孫様でございます。私は何も――」
「殿下のことではない」
立ち上がった公爵はかすかにきつい調子でアリエスの言葉を遮った。
アリエスの飲み込みが悪いことに苛立っているのだろう。
もちろんアリエスは公爵が何のことを言っているかわかっていて、気付かないふりをしたのだ。
そうでないと先代カスペル侯爵の不正をたまたま曝いたことを疑われる可能性がある。
「私は王妃様が――娘が亡くなったことで、悲しみのあまり領地で娘を偲んでおった。まさかその隙にカスペルが、先代カスペル侯爵が不正を働き、権力を手にしようとしていたとは思わなんだ」
「私も……カスペル侯爵のことでは驚いております。ただお給金が少ないことに違和感を覚えて……まさか横領されていたとは本当に驚きました」
「そうか……給金か」
「私のような者にとっては、とても大切なものですので」
アリエスの返答に公爵は声を出して笑った。
だがその顔は蔑みを隠そうとしない。
「……では、この仕事に満足しておるか?」
「はい。私に子供はおりませんが、弟妹たちの世話を長い間してまいりました。その経験を買われたようです。殿下はとても素直で可愛らしく――」
「給金についてはどうだ?」
問われてアリエスは一瞬顔を輝かせ、すぐに口元を引き締めた。
しかし、その頬は紅潮している。
「とても十分な額を頂戴しておりまして、非常に満足しております」
「ふむ。金の価値を理解することは大切であるぞ。私の周囲には金は勝手に湧いてくるものと思っておる者が多い。そなたには大切な殿下を任せておるからな。頼んだぞ」
「そのようなお言葉をいただけるなど大変恐縮でございます」
どうやら演技はうまくいったようで、アリエスがお金で動く人間だと公爵は考えたらしい。
もちろんアリエスはお金が大好きなので、心付けは大歓迎である。
まるでこの部屋の主のようにソファにどっかり座っていた公爵はアリエスが深く頭を下げると、満足したように頷き立ち上がった。
「お帰りになるのでしたら、殿下を――」
「かまわぬ。今回はそなたに会いにきたのだ。我が妹ながら、あやつでは頼りなかったからな」
何も言わず扉に向かう公爵に声をかければ、予想通りの言葉が返ってきた。
アリエスはちょっと驚いたふりをしてから、再び深く頭を下げる。
そのまま扉が閉じられるまで頭を下げ続け、顔を上げたときには冷ややかな表情になっていた。
妹へも孫へもまったく愛情を感じさせない公爵にはある意味感心させられる。
アリエスが妹と対立し、その座を追い落して就いたことに何か手を打ってくるかとも思ったが何もない。
水面下で動いている可能性はあるが、リクハルドがすっかり懐いているアリエスを排してまでイレーンを筆頭女官にする利点もないと考えたようだ。
そしてアリエスはお金で買収できる。
(ポルドロフの王太子の噂にも動じた様子はないようだし、さすがね)
己の野望が叶うのなら、娘が――メルシアがどうなろうとかまわないのだろう。
だがもしもう一人の娘――亡くなった王妃が殺されていたと知ったらどう動くのか。
そのことに興味を持ったアリエスは公爵に知らせるにはどうするべきかと考えた。
(今は無関心でしかない殿下のことをもっと大切にするかしら? いえ、ただ警備を増やすだけね)
以前よりも増えたリクハルドの警備を乱しかねない。
連携が取れなくなれば隙が生まれ、リクハルドの身の安全が危うくなる。
あれこれ考えを巡らせていたアリエスの耳に可愛らしい足音が聞こえ、扉が開かれた。
「アリエス、もうそちらへ行ってもいい?」
「はい、どうぞ。ですが残念ながらお爺様はお忙しいようで、帰られてしまいました」
「別にいいよ」
「さようでございますか。それでは、そろそろ剣のお稽古にいらっしゃいますか? それとも今日はお休みされますか?」
「頑張る!」
突然のテブラン公爵の訪問でお昼寝の時間は短くなってしまったが、リクハルドは大丈夫そうだ。
意気込むリクハルドを見てアリエスは表情を和らげた。
剣の稽古を担当している近衛隊長は頼もしく信頼できる。
その間、アリエスはとある人物と会う予定だった。
アリエスはリクハルドの着替えを手伝い終わると、手を繋いで稽古場へと向かった。