59.疑惑
「殿下、今日のお散歩はお庭に出てみましょうか?」
「うん! どのおにわにするの?」
「もちろん、いつものお庭です。他のお庭はもう少し殿下が大きくなられてからにしましょうね?」
「大きくって、どれくらい?」
「そうですねえ……。剣の稽古で隊長からお褒めいただけたら、ですね」
「それだけ?」
「あら、私は毎日見学させていただいておりますが、隊長がお褒めの言葉を殿下におかけになっているところは見たことがありませんよ?」
「それは……がんばる」
「はい。楽しみにしております」
リクハルドは何でも素直に答え、アリエスを一生懸命喜ばせようとしてくれる。
こんなに育てやすい子はいないと思うほどで、それだけ愛情に飢えていたのかとも思う。
(愛情ねえ……)
アリエスの両親は熱烈に愛し合っていたようだが、子供には無関心だった。
正確にはアリエスに無関心だったのかもしれない。
自分は何か両親の気に障ることをしたのだろうかと若い頃は何度も悩んだが、今思えば特に理由などないのだろう。
人間とはそんなものだ。
特に理由なく恋に落ち、特に理由なく嫌いになる。
人の心ほど不確かで不誠実なものなどない。
やはり世の中お金であり、筆頭女官になってからのアリエスのお給金はかなり上がっていた。
「アリエス、今日もローコーのお話をしてくれる?」
「はい。殿下がちゃんとベッドにお入りになりましたらね」
アリエスが答えると、リクハルドは嬉しそうに頷いた。
老侯の日記はリクハルドが眠っている間に先に読み進めるのだが、時々難解な文章に当たっては少し戻って読み返すということを繰り返している。
そのため、リクハルドに聞かせる物語としてもそれなりに成立していた。
難解な文章もそうだが、一見何の変哲もない出来事も深く読み込めば隠れた意味が見つかるのだ。
(一度でいいから生前にお会いしてみたかったわね……)
先王の急逝にも揺らぐことなく、この国が安泰だったのはひとえに元宰相の力が大きい。
現国王は直にその手腕を見ており、教えを受けているのだから本来なら安定した国政であるはずなのだ。
(まあ、水面下の権力争いは別として、十分に安定はしているけれどね)
どこの国でも人でも憂いを晴らすことなどできはしない。
いつも何かが濁っているのだ。
アリエスはリクハルドが眠っていることを確認して、再び日記に目を落とした。
それからしばらくして、気になる記述を見つける。
(え? まさか……嘘でしょう?)
信じられないとばかりに、アリエスは何度も頁を繰って読み返した。
老侯もまた信じられずに曖昧な記述になっているのだろう。
アリエスは見るともなしにリクハルドの健やかな寝顔を見つめながら、懸命に考えを巡らせた。
それから一つの結論を導き出す。
「……残念ながら、トマスはもう生きていないでしょうね」
声に出して言葉にしたことで、アリエスはなお確信を持った。
勝手にリクハルドは大丈夫だと安心していた自分の甘さに腹が立つ。
ただこれはさすがにアリエス一人の手には負えそうになかった。
リクハルドのベッド脇の椅子からそっと立ち上がり、カーテン越しの薄明かりの下で急ぎ手紙を書く。
それから静かに部屋を出ると、メイドの一人にフロリスを呼んでくるように言いつけた。
今は王子の部屋の隣にアリエス専用の部屋があるのだが、フロリスには昼の間は資料室の整理を続けてもらっているのだ。
しばらくしてフロリスがやってくると、書いたばかりの手紙を託した。
「フロリス、この手紙を使用人棟の衛兵隊長のガイウスさんに渡してくれる?」
「かしこまりました」
「署名はしていないけれど、私からだというのは伝わるはずよ。ただ他の人に誤解されてしまったらごめんなさいね」
「大丈夫です。逆に牽制になりますから」
フロリスはにっこり笑って出ていった。
メイドが衛兵に手紙を渡すなど、色恋沙汰と勘違いする者は多い。
だがガイウスならフロリスとアリエスをすぐに結びつけるだろう。
またフロリスの意中の人が衛兵隊長だと広まれば、メイドだからと手を出そうとしてくる男性使用人も減るようだ。
アリエスはフロリスを見送るとリクハルドの寝室に戻り、異常がないことを確認した。
(そもそも殿下が抜け道を使うわけでもないのに何度も抜け出せたこと自体おかしいのよ)
それだけムランド夫人や女官たちの怠慢だと思っていたが、改めて考えると四歳の子供相手にそれは不自然すぎる。
女官たちもテブラン公爵の息がかかっている者たちばかりのはずなのだ。
だからこそ、リクハルドの身は安全だと思っていた。
(急な異動は混乱を招くね……)
女官長の言葉を思い出し、アリエスが知る女官たちの顔を思い浮かべた。
今のところアリエスが信用できる女官は女官長補佐のマニエル夫人だけである。
しかし、マニエル夫人は今の立場から動いてもらうわけにはいかない。
(そうね。ならいっそのこと混乱させればいいのよ。それもとんでもなくね)
アリエスは久しぶりに楽しいことを思いつき、心躍らせた。
間違いなく王宮は――貴族たちは混乱し、テブラン公爵は怒りを募らせるだろう。
(そうだわ。この際だからヘンリーさんも巻き込んでしまおうっと)
以前、都合よく利用されたことは忘れていない。
それなら今回も積極的に動いてもらっても借りにはならないはずだ。
アリエスは気持ちよさそうに眠るリクハルドの様子を見ながら、次々に手紙を書いていった。