5.話し合い
「あなたの奥様――ハンナさんとはどこで知り合ったの? 詳しくは聞いていないから知りたいわ」
話題を変えたくてアリエスが問いかけると、ルドルフはまた疑わしげな視線を向けてきた。
何も疾しいことはないのでアリエスは真っ直ぐに見返す。
「ハンナは僕の学生時代の友人の妹なんだ。大学の長期休みのときに屋敷に誘ってくれてね、そこで出会った」
「それは素敵ね。何ていう方?」
「ダフト子爵家のヘンリーだよ」
「あら、あなたが手紙によく書いていた方ね? 確か今は王宮で政務官として働いていらっしゃるんでしょう?」
「ヘンリーは次男だからね。それにダフト子爵家もあまり裕福ではないんだ。だからハンナの持参金も少なくて……でも僕にとってそんなことは関係なかった。もちろんうちの財政状況を考えれば、持参金の多い娘を娶るべきだったのはわかるよ。だけど、結婚はお金じゃない。大切なのは愛だよ」
「……そう?」
ルドルフはお金のために結婚した――結婚させられた姉を前にしてどうしてここまで言えるのだろうと、アリエスは不思議だった。
悲しみよりも疑問のほうが大きく、まるで他人を見るようにルドルフを見る。
その視線を避けるように、ルドルフはまた室内を行ったり来たりし始めた。
「あなたが無事に大学まで卒業できたのは誰のおかげかしら? 私よね? 私がお金のために見も知らぬ相手と結婚したおかげで、あなたは大学に通うことができ、そして奥様とも出会えた。カーリンとマーリンが無事に社交界デビューして結婚できたのは? デビューしなかったら今頃はまだこの屋敷でおしゃべりばかりでうるさくしていたでしょうね。お父様の薬代は? お母様の衣装代は? みんなみんな、私が遠く離れたポルドロフ王国に嫁いで、屈辱に耐えていたからだわ」
淡々と事実を告げる姉を、ルドルフは化け物でも見るように目を見開き口を開け、かすかに震えた。
以前のアリエスはいつもおとなしく控えめで、愚痴を言うことなく微笑んでいたのだ。
もっと言うならハリストフ伯爵家でも。
だが次第にその顔から表情は消え、邪魔にならないように屋敷でも社交界でも身を潜めて影のように暮らしてきた。
その結果、一文無しで追い出され、実家に戻っても厄介者扱いされている。
世の中の理不尽さに腹を立てる気力さえもアリエスにはもうなかった。
長男でありながら、それとも長男だからこそか、ルドルフは両親に溺愛されていた。
おそらく父が亡くなり爵位を継いでから、この家の財政状況も知り、ショックを受けたのかもしれない。
だからといって今も甘えが許されるわけではないが、アリエスにとって想定していなかったわけではないのだ。
この家で歓迎されなかった場合のことも考えている。
「まあ、いいわ。今さらそれを言っても仕方ないもの」
「だ、だけど姉さんは、結婚して贅沢な暮らしをしてたんだろ?」
「……夫と義母に蔑まれ、社交界でも不出来な嫁だと噂されていたとしても、……私付きの侍女がいて、伯爵夫人として最低限恥ずかしくないドレスを着て、美味しい食事ができたことは贅沢だったと思うわ」
せっかく悲惨な話を打ち切ろうとしたのに、ルドルフは負けじと言い返してきた。
そのために言いたくもないことを告げると、ルドルフは後ろめたそうな顔をする。
その表情が幼い頃に悪戯をしたときのようで、アリエスは無邪気だった子供時代を思い出した。
「それでも、ハリストフ伯爵家の図書室は見事だったわ。だからできるだけ時間を作って、刺繍なんかよりずっと本を読んでいたの。蔵書の種類も豊富でね、医学書から天文書、経済から政治、思想、本当にたくさんあって面白かったわ。読書は私にとって至福の時だったから、この六年悪かっただけじゃないのよ」
「姉さんは昔から本を読むのが大好きだったよね」
「ええ」
暇さえあれば――当時はあまりなかったが、それでも末の弟を抱いたまま本を読む姿をルドルフに笑われたりしたものだった。
そのことを思い出し、二人の間に懐かしい空気が流れる。
つらい経験はたくさんしてきたが、それでも自分はまだ恵まれているほうだとアリエスは改めて思った。
何より六年間で少しずつ貯めた宝石類を慰謝料替わりにしっかりもらってきたので質素に暮らせば生活には困らない。
ハリストフ伯爵家の膨大な財産からしてみれば微々たるもので、おそらく宝石類のことにも気付かないままだろう。
むしろあったことすら知らないはずだ。
まさか無一文で追い出されるとは思ってもいなかったので、自分でもあのへそくりはよくやったと思う。
「……ルドルフ、私には確かに居場所はないけれど、ここにずっと居座ろうなんて考えてはいないの。ただ少し手を貸してほしいだけ」
「手を貸す……?」
伯爵家を追い出されてからこの実家に戻るまで、あれこれとこれからのことを考えていたアリエスにはいくつかの案があった。
世間一般でよくあるのは、子供のいる男やもめの後妻になること。
だがアリエスにとって結婚生活は苦痛でしかなかったので、良案には思えず却下した。
運よくルドルフが歓迎してくれ、いつまでも実家で暮らせばいいと申し出てくれたなら――。
そんなことを考えなかったわけではないが、無駄な期待だったと思い知らされた。
やはり男性は当てにならない。
自活の道を模索した結果、身分を捨て、庶民として街中で未亡人か何かとして働くことを考えた。
問題は針仕事があまり得意ではなく、料理はできず、接客ができないことである。
身分を捨てたとしても、どこで知り合いに会うかわからないのだから、街で接客の仕事をすることはできなかった。
農作業は天候に左右されるので男性ほどではないが、当てにならない。
最終手段として宝石類を手放し、細々と暮らしていくということもあったが、だからこそ大胆な選択肢も考えることができた。
それが先ほどのルドルフとの会話でさらに本気になった。
すっかり冷めてしまったお茶を飲み干すと、アリエスはゆっくりカップを置いた。
そして警戒するルドルフをまっすぐに見つめる。
「紹介状を書いてほしいの」
「紹介状? ……まさか家庭教師にでもなるつもりかい? クローヤル伯爵家出身の姉さんが?」
「いいえ、違うわ」
「じゃあ、いったい誰に紹介するっていうんだ?」
「誰にかはわからないわ。だけどあなたは仮にもクローヤル伯爵なんだもの。伝手はあるでしょう? それに先ほどお友達のヘンリーの名前も出ていたし」
「ダフト子爵家に紹介なんてできないよ」
「もちろん、そうじゃないわ。紹介してほしいのは、王宮よ」
「……王宮だって?」
「ええ、そう。王宮でなら伯爵家出身の私にも働き口はあるでしょう? 女官か、侍女として」