47.言いがかり
翌夕。
アリエスが湯浴みに向かおうと部屋を出たところで、ムランド夫人と出くわした。
ムランド夫人は怒り心頭といった様子で、周囲はわくわくしながら――いや、はらはらしながら見ている。
「この陰険女! 殿下のことを陛下に進言したわね!?」
「何か勘違いされておりません? 私のような者が陛下に進言など畏れ多いこと、できるわけがありませんでしょう?」
「それならなぜ陛下から、殿下のお世話係に対して一度体制を見直すようにとのお達しがあるのよ!?」
「え? 普通じゃありませんか? 殿下はあなた方の傍を離れられ、お一人で王宮内をさまよっていらっしゃったのですもの。たった四歳で広い王宮をお一人で歩かれたなど、きっと心細く恐ろしい思いをされたでしょうね……。ご無事だったからよかったものの、何かあってからでは遅いのですよ? ムランド夫人は筆頭女官として、もっと責任を持たれるべきでしょう?」
「なっ、な……」
ただの言いがかりでしかないムランド夫人の主張に、アリエスは淡々と答えた。
ムランド夫人は体をわなわな震わせていたが、ぎゅっと両手を握りしめアリエスを睨みつける。
「あなた、私を誰だと思っているの?」
「ムランド伯爵の奥様で、今は王子殿下の筆頭女官でいらっしゃいますよね?」
「私は王家に連なる一族、テブラン公爵家の娘よ!」
「はい、存じ上げております。王子殿下の大叔母様でいらっしゃいますね? その縁故関係で殿下の筆頭女官に選ばれたのですか?」
当然のことを今さらなぜ訊くのだといった調子でアリエスは問いかけた。
ムランド夫人はアリエスの質問に一瞬怯んだが、くいっと顎を上げる。
「そう。私がテブラン公爵家の者だと知って、その態度なのね? よくわかったわ」
「ええ、私もよくわかりましたわ。あなたがご実家の権威を未だに振りかざしていると。それで私は今、脅されているのでしょうか?」
はっと誰かの息を呑む声が聞こえる。
ここまではっきり言葉にして大丈夫なのかと皆は心配しているようだ。
またムランド夫人の返答も気になるようで、固唾をのんで次の言葉を待っていた。
否定しても肯定しても、ムランド夫人はこれ以上の身動きが取れなくなる。
この先、アリエスに何かあれば、真っ先に疑われるのはムランド夫人――テブラン公爵家だろう。
我ながら上手く立ち回ったなと内心で自画自賛しつつ、アリエスはかすかに怯えた表情でムランド夫人の答えを待った。
「あなたたち! そこで何をしているの!?」
せっかくいいところで邪魔に入ったのは女官長である。
ムランド夫人はほっとしたようで、アリエスは内心で舌打ちした。
「またあなたなの、クローヤル女史!」
「私は湯浴みに行こうとしてムランド夫人に呼び止められたのです。そもそもこの階にムランド夫人がいるのも、私に用事があったからだと思いますが?」
「あなたはまた――っ!」
アリエスを叱責しかけた女官長は、周囲の冷たい視線に気付いたのか口を閉ざした。
女官長は一度咳払いすると、アリエスを一瞥してからムランド夫人に向き直った。
「ムランド夫人、あなたがここにいることはないわ。早く部屋に戻りなさい」
「は、はい」
女官長の命令にムランド夫人は慌てて頭を下げ、その場から立ち去る。
もちろん最後にアリエスを睨みつけることは忘れずに。
周囲の者たちは納得いかない様子ではあったが解散し、女官長もアリエスには何も言わずに踵を返した。
その後ろをついていく女官長補佐のマニエル夫人は一度振り返ると、アリエスに向かってぺこりと頭を下げる。
そこでアリエスは、この騒動に女官長を呼んだのがマニエル夫人だと気付いた。
どうやらアリエスを助けようとしてくれたらしい。
(マニエル夫人とは一度ちゃんと話をしたほうがいいかもしれないわね……)
アリエスは使用人たちから人気があると自覚はしている。
だがそれだけでは自由に生きるのには物足りない。
やはりそれなりに権威がある者たちの後ろ盾も必要なのだ。
ジークやヘンリーなど何を考えているのかわからない、裏のある人物ではなく、単純で扱いやすい人物がいいだろう。
(まずは女性からね……)
イレーンのように有力な貴族を味方にしても、全てが男性だと女性からの反発が強い。
それなりの家柄で出しゃばらず、頭は良いとまではいかなくても馬鹿では困る。
先ほどのムランド夫人の行動がいい例だった。
あのような場所で使用人に人気のアリエスを罵倒すれば、どのような結果になるかもわからないなど愚か者の極み。
おそらく今まで出自を理由に誰も諫める者もおらず、何もかも思い通りにいっていたのだろう。
アリエスは湯浴みをしながらいろいろと考えを巡らせていた。
世話をしてくれるユッタはムランド夫人と女官長に対してぷりぷり怒っている。
時々大丈夫だと答えれば、ユッタはアリエスが優しすぎると嘆くようでいて笑顔になっていた。
この調子だとまたアリエスのいい噂を広めてくれそうだ。
部屋に戻ったアリエスは床に落ちている手紙に気付いた。
手紙は各部屋に配達人が届けてくれるのだが、鍵をかけているとこうして扉の隙間から差し入れられるのだ。
ここの待遇にほとんど不満のないアリエスではあったが、手紙の扱いがぞんざいなことだけは不満だった。
これではいつ手紙を読まれるか、また盗まれるかわかったものではない。
使用人の中で字が読める者が少なく、配達すること自体少ないのだろうが、他の女官や侍女は部屋付きメイドに託されている。
(もう一人くらい、メイドをつけてもらうべきかしら……。でもそれじゃあ、この部屋では手狭だし……)
自分でメイドを雇うこともできるにはできるが、賃金の支払いがもったいない。
そもそもアリエスの部屋自体が女官付き用の侍女の部屋なので、かなり狭いのだ。
上階の女官用の部屋なら侍女やメイドのための小部屋もある。
(……女官長の部屋はとても広かったわね)
以前の計画通り女官長になるという選択肢もあるが、面倒くさい雑事も増え、資料室に入り浸ることができなくなってしまう。
何より面倒だと思ったのが、部下の責任を取らなければならないことだった。
要するに、ロイヤやムランド夫人のようなプライドだけ高い女性陣をうまく使わなければならない。
(うん。絶対いや)
結論を出したアリエスは、髪を乾かし梳いてくれたフロリスにお礼を言ってから、ベッドに腰を下ろした。
そしてフロリスを下がらせ、先に開封していた手紙を読み始める。
差出人はクローヤル伯爵家の執事であるフランク――は転送してくれただけで、本当の差出人はハリストフ伯爵家の執事・ヤーコフだった。
「あらあら、まあまあ」
手紙を読み進めるうちに、アリエスの口から呆れの言葉が漏れ出る。
それほどに内容は残念なものだった。
手紙を読み終えたアリエスは少し考え、返事を書くために机に向かった。




