46.暴力
フロリスが受け継いだ先々代カスペル侯爵の遺産を管理するようになって一番にありがたいのは、アリエスがへそくりである宝石類を換金するのに、それほど気を遣わなくていいということだった。
新しく雇われたカスペル侯爵家の弁護士を通して換金すれば、疑われることはない。
アリエスは弁護士に、離縁されるときに本当は無一文で放り出されたわけではなく、財産目当ての人物を遠ざけるために流した嘘だと説明している。
フロリスの財産を管理するにあたって、一つ一つ丁寧に弁護士に相談している(ふうにみせかけている)ので、信用もされていた。
もちろんフロリスの財産に手を付ける気はいっさいない。
だがフロリスの財産のおかげで得られる信用を利用することにためらいはなかった。
「アリエス様、本当に大丈夫なのですか? 今日くらいはお休みされてもよろしいのではないでしょうか?」
「ありがとう、ユッタ。でも大丈夫よ。女官長に叱られてしまったことはつらいけれど、体のほうはもう何ともないもの。少しでも早く資料室の整理を終わらせれば、女官長もお喜びになると思うわ」
朝食を終えたアリエスが出仕する準備をしていると、トレイを下げに来たユッタが心配そうに声をかけてきた。
フロリスからも何度も言われていることではあったが、アリエスは首を横に振って答えると、ユッタの表情が心配から怒りに変わる。
「女官長は贔屓が酷いです! アリエス様はちっとも悪くないのに! お叱りになるべき相手はムランド夫人ではないですか! 殿下から目を離されたばかりか見失われて……。殿下は雨に濡れてお泣きになっていらっしゃったのでしょう!? アリエス様が見つけられたからよかったものの、そうでなければどうなっていたか! みんなとんでもないことだって、ムランド夫人は無責任だって噂しているんですよ!」
「……ユッタ、たとえみんなが噂していても、あなたまで一緒になってはダメよ? もしどこからか話が漏れて罰せられることになったら……。特にあなたは私によくしてくれるから、目の敵にされているかもしれない。フロリス、あなたもよ? 私は大丈夫だから。ね?」
「……はい」
興奮するユッタをたしなめて、アリエスはフロリスとともに心配の言葉をかけた。
ユッタはしぶしぶ、フロリスは自分のことを思ってくれるアリエスに感謝するように返事をする。
今のユッタの言葉からもちゃんと昨日のことが噂になっていると知って、アリエスは内心でほくそ笑んだ。
昨夜部屋に帰ってから、少しばかり弱ったふりで何があったのかを二人の前で嘆いてみせたのだ。
ユッタのおかげで噂は一晩で広まったらしく、第一段階はクリアである。
アリエスが部屋を出て資料室に行く間も、使用人たちから心配の声を多くかけられた。
(さて、次は敵を知ることね)
昨日まではカスペル前侯爵夫人の過去を調べるとこにわくわくしていたが、今はテブラン公爵家――もしくはムランド伯爵夫人の弱味を探すことにわくわくしていた。
テブラン公爵家は歴史が古く、当然のことながら王家の血統を受け継いでいる。
そのため王宮での影響力も強く、若年の国王を守るために先々代カスペル侯爵は病気を隠してまで宰相として残ったのだろう。
(そう考えると、前宰相が引退したのは無事に王子殿下が生まれたからというより、テブラン公爵家出身の王妃様が亡くなったからかしら……。いえ、それはあまりに穿っているかしらね)
公爵家に関連する資料を手に取りながらアリエスが考えていると、扉の開く音が聞こえた。
この足音はジークだ。
「よお、またやらかしたらしいな」
「やらかしたのはムランド伯爵夫人で、私はそのフォローをしたまでです」
書架の間から顔を覗かせ、にやにや笑うジークを睨みつける。
今回のことでどうして笑っていられるのか、アリエスは腹が立っていた。
「何をそんなに怒っているんだ?」
「私が怒っているかどうかはわかるんですね、その鈍い頭でも」
「アリエスが殿下のことでそんなに怒ることが意外なんだよ。そりゃ、王子殿下が一人で王宮内をふらふら歩いていたことは問題だよ。いつ誘拐されるかもわからない。それに雨に濡れていたのも問題だな。しかし、それはお付きの者たちも悪いが王子も自覚を持つべきだろう?」
「殿下はまだ四歳なんですよ?」
「子供は大人が考えるよりずっと賢いって言ったのはアリエスだろう?」
「ええ、そうですね。それに子供は大人が考えるよりずっと傷つきやすいんです。鞭で打たれれば怖くなって逃げだすのも仕方ないでしょう?」
なぜ殿下のことでジークと言い争っているのか、アリエスには不思議だった。
所詮は他人の子供で、後の王になろうと嫌なら国を捨てればいいのだ。
アリエスは冷静になろうと大きく息を吸って、持っていた本をテーブルまで運んだ。
「鞭で打たれるのは痛いからなあ。逃げ出すのも仕方ないかもしれないが、それほどの悪いことをしたってことじゃないのか?」
「……ジークは鞭で打たれたことがあるんですね」
「ああ、何度かな。それでもそのうち打たれないように誤魔化すコツを覚えたな。そういう意味では確かに子供は大人が考えるより賢いな」
昔を懐かしむように笑うジークはアリエスの視線に気付いて眉を寄せた。
アリエスの沈黙の意味がわからないらしい。
「何かおかしなことを言ったか?」
「いえ……。ただ暴力を受けて育った子供は、大人になっても暴力を受け入れるのだなと思っただけです」
「鞭で打つことが暴力か?」
「そう思います」
アリエスがきっぱり答えると、ジークは苛立ったように両腕を無意味に広げた。
その動作さえも暴力を受けた人間が怯えることはわからないらしい。
「じゃあ、暴力を受けずに育った子供が、大人になって暴力を受けたらどうなるんだ? ただやられるだけか?」
「私は暴力を――正確には体罰を全否定しているわけではありません。強者から弱者への一方的な力による支配が許せないだけです。ただこの問題は非常に複雑で根深いものですから、他者が簡単に口を出せることではありません。それでも逃れることのできない一方的な暴力はその者の逆らう気持ち、生きる気力さえも奪っていくことを私は知っています」
いつもの淡々としたアリエスではない、力のこもった言葉に、ジークはどう返事をすればいいかわからなかったらしい。
じっとアリエスを見つめ、それから真剣な面持ちで頷いた。
「悪かった。茶化すようなことじゃなかったな。今回のことについては、これからどうすべきか、本気で考えてみるよ」
「ええ、ありがとうございます」
「お礼を言うようなことじゃないだろ?」
「いいえ。私のような離縁された女の言葉を真剣にとらえてくださることは感謝すべきですもの。正直に言えば、感動さえしているわ」
アリエスは笑いこそしなかったが、その表情はかなり緩んでいた。
ジークは目を見開き、すぐににやりと笑う。
「意見を聞くのに男も女も、他にも色々あろうが関係ないだろ。アリエスの周囲にはよほどろくな人間がいないんだな」
「あなたの周囲にはとてもいい人ばかりなのね」
そう言って、アリエスは一冊の資料本を持ち上げた。
それはテブラン公爵家の歴史に関わるもの。
「冗談でなく、私はこの国をいつでも出ていけるように準備を進めているの。だから私のことは信用しないでね」
「……肝に銘じておくよ」
ジークはアリエスがテーブルに積み上げた本を見ながら答えた。
それから手をひらひら振って資料室から出ていった。