44.雨と鞭
ジークが訪ねてきた翌日、日誌をたっぷり堪能したアリエスは書庫へと向かっていた。
今日はしとしと雨が降り、中庭を通り抜けることはできない。
そのため回廊を進んでいると、中庭のほうでがさごそと音がした。
そちらに視線をやれば、小さな背中が見える。
アリエスは立ち止まったものの、腕に抱えた日誌を見下ろし、再び書庫へと向かった。
書庫では次に来たときにもちゃんとわかるように元あった場所へ戻し、今後の整理の仕方をイメージする。
そろそろお腹が空いてきたことで昼食の時間だと知り、アリエスは書庫を後にした。
書庫も資料室と同様に直射日光を遮っているので時間経過がわかりにくい。
今日は特に天気が悪いため、予定より時間を過ごしてしまったなと急ぎ回廊を進んだ。
午後からはフロリスと女官姿を交替してもらうつもりなのだ。
しかし、何気なく中庭に目を向けたアリエスは思わず足を止めた。
(嘘でしょう……?)
雨はほとんどやんでいる。
それでもアリエスは衛兵に知らせようと進みかけ、結局自分で小さな体を丸めた男の子のところへと向かった。
「何をなさっているのです?」
「かくれているんだ」
「あら、それは残念。私に見つかってしまいましたね」
「お前はまじょだから、いいんだ」
「そうですか。ですが、見つかってしまった以上はここから出て、皆の許に戻りましょうね。では、ごきげんよう」
これ以上ここにいてはアリエスまでびしょびしょになってしまう。
それでは目立つと、立ち去りかけたアリエスのスカートをリクハルドが摑む。
「……殿下? 離してくださいませんか?」
「いやだ」
「それでは隠れるのはやめて、ひとまず屋根のある場所に移動しましょう。殿下はともかく私はこれ以上濡れたくないので」
そう言うと、リクハルドはおとなしくアリエスについてきた。
だがスカートを離そうとはしない。
後でメイド服に着替えるつもりなのでそれほど気にならないが、リクハルドはスカートがしわになるほど強く握っていた。
「殿下、次からは雨に濡れない隠れ場所を教えてさしあげますから、今日はひとまず皆の許に戻って体を乾かしてください。お風邪を召されますよ」
アリエスはできるだけ優しい口調で声をかけ、リクハルドを見下ろした。
そこでスカートが汚れていることに気付く。
黒いためにわかりにくいが、それが血ではないかと思い、アリエスは膝をついた。
「殿下、スカートを離して手を見せていただけませんか?」
ふるふると首を振るリクハルドに、面倒だなという気持ちを隠してそっと小さな手に触れた。
右手はスカートを摑んでいるために腰を落としたアリエスの姿勢は少し苦しい。
リクハルドはアリエスの温かな手に心も緩んだのか、そろそろとスカートを離した。
その手を優しく包んだまま持ち上げて、ゆっくり開くように促す。
「……殿下、左の手も見せていただけますか?」
リクハルドは無言のままおそるおそる左手を広げて見せた。
その手のひらを見て、アリエスは顔をしかめないでいるように唇を噛んだ。
「……誰がこんなことを?」
「……」
「殿下? 教えてくださいませんか?」
「……ゲニーだよ」
「ゲニー? 殿下の筆頭女官の?」
アリエスに問いかけに、リクハルドは黙ったまま頷いて答えた。
だがリクハルドは答えたことを後悔しているかのように、俯いて目を合わせようとしない。
アリエスはハンカチを取り出すと、左手をそっと押さえてから右手を押さえ、そのまま手を繋いで立ち上がった。
「……どこへ行くの?」
「きっと皆が心配して殿下を捜しているでしょうから、お部屋へ戻りましょう」
「だ、だけど……」
「殿下、私のことはアリエス、とお呼びください」
「アリエス……?」
「ええ。私は魔女だとお教えいたしましたでしょう?」
「う、うん……」
「ですがそれは秘密ですから。今度こそ、約束を守ってくださいね」
「ごめんなさい」
一昨日の秘密をばらしてしまったことを思い出したらしく、リクハルドは素直に謝った。
アリエスはさらに小さくなったように見えるリクハルドを慰めることなく、歩き始める。
「間違ってしまったことを謝罪することは立派ですわ、殿下。誰でも失敗や間違いはしてしまいますからね。しかも何が間違いなのか、それを知ることはとても難しいものです。ですからよくお考えになってください、殿下」
「……よくわからないよ」
「ええ、そうですね。今はまだわからなくても、少しずつわかってくださればいいのです」
アリエスがそう伝えたとき、向かいから騒がしく近衛騎士と王子付きの女官たちが走ってきた。
途端にリクハルドはアリエスの手をぎゅっと握る。
先頭に立つのはゲニー・ムランド伯爵夫人だ。
ムランド伯爵夫人は厳格で規律にうるさく他人の失敗を許さないと聞く。
今回の収賄で夫の名前がリストにあったことは、かなりの屈辱だったろう。
もしそれが王子への厳罰――手のひらを鞭で打つということに繋がったのなら――そうでなくても、アリエスは許せなかった。
「殿下! いったいどちらにいらっしゃったのですか!?」
「ムランド夫人、殿下はとても怖い思いをなさったようです。そのように大きな声を出されるのはお控えください」
「なっ? あなたごときが私に意見するというの!?」
「私ごときのことは後にしてくださいませんか? 殿下はお怪我をされております。それ以上にこれほど濡れていらっしゃるのですから、お風邪を召されないようにお早くお体を温めていただかなければなりません。そこのあなた、急ぎ湯浴みの用意を。そちらの騎士様は上着を貸してくださいませんか? これ以上殿下がお冷えにならないように」
怒りに口調がきつくなるムランド夫人にアリエスは淡々と答え、夫人の後ろにいた侍女に声をかけた。
侍女は一瞬ムランド夫人の顔を窺ったが、状況的にアリエスに従うべきだと判断したらしい。
すぐに踵を返して走り出す。
騎士は上着を脱いでリクハルドを包み、抱き上げようとしたが拒否されてしまった。
仕方なくアリエスが上着ごとリクハルドを抱き上げる。
そこにムランド夫人の怒りを抑えた声が聞こえた。
「クローヤル女史……あなたは少々出しゃばりすぎじゃないかしら?」
「出しゃばる? 殿下が一人雨に濡れて怯えていらっしゃったというのに、出しゃばらずにいろと?」
「そういうことを言っているのではありません。さあ、殿下。このゲニーの許へいらっしゃってください」
ムランド夫人は両手を差し伸べたが、リクハルドは怯えたようにアリエスにギュッとしがみついたまま。
その様子は騎士やもう一人の女官にもはっきりとリクハルドの意思を伝えていた。