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3.離縁

 

 ――五年後。

 祖国であるマーデン王国へ向かう行商人の馬車に揺られるアリエスは、痛む腰をそっと揉んだ。

 結婚してからの六年間、一度も妊娠することのなかったアリエスは離縁され、無一文でハリストフ伯爵家から放り出されたのだ。

 比喩ではなく、本当に。


 二十日前の夜、夫のボレックがいきなり部屋に入ってきたときには驚いた。

 アリエスは早めに就寝しようと着替えるところだったのだ。

 慌てて脱ぎかけのドレスを引き上げたアリエスを、ボレックは不快そうに睨みつけた。


「私はついに真実の愛を見つけたんだ! だからお前はもう必要ない!」


 ボレックはそう告げると、アリエスに離縁状を叩きつけた。

 そのまま呆気に取られるアリエスを玄関まで引っ張り、離縁状一枚を持たせただけで外へと締め出したのだ。

 騒ぎを聞きつけてやってきていた義母の愉悦に満ちた顔と、使用人たちの同情に満ちた顔は忘れらない。


 またいつものようにボレックは酔っぱらっているだけかもしれないと、アリエスは厩舎で一晩過ごし、翌朝になって屋敷の玄関扉を叩いた。

 応対した執事は旦那様も大奥様もまだ眠っておりますと告げた後で、旅行用の鞄と小さな鞄を差し出した。


「どういうことなの? 旦那様は酔っていらっしゃっただけでしょう?」

「奥様、旦那様は本気でいらっしゃいます。実は数日前からその……離縁の手続きをされていらっしゃいました。どうやらあのお噂は本当のようでございます」

「まあ……」


 あの噂――それはここ最近流れ始めた噂で、ボレックがどうやらとある未亡人に入れ込んでいるらしいと。

 その未亡人に妻とは別れるので結婚してほしいとプロポーズしたというものだった。

 未亡人の年齢はアリエスより二歳年上だが、亡くなった夫との間に娘が一人いるらしい。

 要するに、高齢の夫相手でも身ごもることができたのだ。

 あまり屋敷に戻らず放蕩の限りを尽くしているボレックに義母はいつも苛々してアリエスに当たり散らしていたが、その未亡人との噂にだけは上機嫌でアリエスに語って聞かせた。


 義母にはずっと嫌われていた。

 初対面のときから蔑まれ、何をやっても仲がうまくいくことはなく、社交界でもボレックが落ち着かないのは嫁のせいだと言いふらされ、アリエスはさらにみじめな思いをしていたのだ。

 当然のことながらアリエスは社交界でいつも嘲笑の的だった。


 アリエスがこの六年間、どうにか耐えていられたのは使用人たちと上手くいっていたことと、図書室の膨大な蔵書にあった。

 子供の頃からほとんどの知識を本から得ていたアリエスは大好きな読書に没頭するあまり、次第に社交の場から遠のくようになっていた。

 そんなアリエスに夫は無関心で、義母は苛立つばかり。

 それでも伯爵夫人として最低限の社交はこなし、後は目立つことが大好きな義母に任せていた。


 マナーは独学と義母たちの所作を観察してひと通りできるようになっている。

 だがダンスだけはダメで、伯爵夫人としてデビューした当初は散々で恥をかいた。

 今ではダンスを誘ってくる男性もいない。

 そのため、アリエスはいるかいないかわからないというほどの存在感のなさから、陰では幽霊伯爵夫人などと呼ばれるようになっていた。


「――もうすぐ国境ですぜ。まあ、何か検閲があるわけじゃないんで、気楽なもんですがね」


 行商人の長に声をかけられて、アリエスは我に返った。

 少々思い出に浸りすぎていたようだ。

 国境を越えれば二日ほどで故郷へ――実家に戻れる。

 そう思うと喜びより不安が大きかった。

 父はすでに亡くなり今は弟が爵位を継いでいるが、離縁された姉をどう思うだろう。

 受け入れられなければ、自活の道を探さなければならない。

 それでもある程度の余裕があるのは幸いだった。


 ハリストフ伯爵家から追い出された翌朝、執事から渡された鞄にはアリエス付きだった侍女のエルスが詰めてくれたらしい必要最低限のものが入っていた。

 その中には故郷までの旅賃になりそうなだけの硬貨も含まれており、これは執事がどうにか用立ててくれたのだろう。

 アリエスは執事たちに感謝して、無事に実家に帰れたらお礼の手紙を書こうと決めていた。


 だが何より助かったのは、アリエスの日記をエルスが荷物の中に入れていたことだ。

 鞄を渡されたとき、最初に確認したほどだった。

 なぜならその日記には、いわゆるへそくりが隠してあるからだ。


 結婚生活のなかで、ボレックが恥をかかないよう伯爵夫人として最低限必要なものの購入は許されたが、自由にできるお金はなかった。

 現金を手にすることができないアリエスは、当初から結婚生活に不安を抱いていたので、いざという時のために指輪やネックレスを細工した日記の中に隠すようにしていたのだ。


 日記は表紙も厚みがあり、鍵付きのものを選んだ。

 心は痛んだがページをくり抜いてロウで固め、アリエスが希望して購入した宝石類を音がしないように布でくるんで隠した。

 今のところこの宝石たちの出番はないが、換金するときは気をつけなければならない。


 追い出されたその日にアリエスは街で庶民の服を買い、着ていたドレスを売り払ってお金に替えた。

 この国もこれから向かう故郷までも比較的治安が良いことが幸いして、旅賃を浮かせるために行商人の一行に加えてもらえたことも運がよかった。

 商売をしながらの旅なので時間はかかったがもうすぐ祖国だ。

 アリエスは膝の上に抱えた日記の入った鞄をぎゅっと握り締め、前方に目を向けた。




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